先進企業に学ぶ(課題別編) – 承継で起きた問題を、16社はどう解決したか|継ぐ人がいない、時間が足りない、反対される、警戒される

ローカルグローススタジオは、『地方企業にスタートアップのような成長を』というテーマで、コンテンツ発信と支援サービスを展開しています。この記事では、実践的なビジネスノウハウを、できるだけわかりやすくお伝えしていきます。

この記事は、「先進企業に学ぶ」シリーズで取り上げた31社のうち、事業承継の場面で問題が起きた16社を、問題の種類ごとに並べ直したものです。親族の外へ渡すことになった、危機の直後に誰へ渡すか、引き継ぎの時間が急に消えた、廃業寸前の状態で引き受けた、先代に反対された、外から来て警戒された、継いだ後に何の会社かを決め直した、という7つの問題を扱います。

どの問題も、1社だけの話ではありません。同じ問題を経験した会社を並べると、解決の仕方の共通点と、会社ごとに違った条件の両方が見えます。各章は「起きたこと」「それぞれの会社がどうしたか」「共通点と分かれ目」「自社に当てはめるなら」の順です。会社ごとの説明は、そのときの状況、下した判断、その後の結果の3段で書き、個社の記事へリンクしています。詳しい経緯と一次資料は、リンク先で読めます。

この記事の要約

承継の場面で起きた問題は7つです。時系列で、継ぐ前(1章)、継ぐとき(2章から4章)、継いだ後(5章から7章)の順に並べています。自社に近い問題の章から読めます。

起きた問題起きた会社どう越えたか
親族の外へ渡すことになった(1章)餃子の雪松、中川政七商店、サタケ会社を1つの塊として渡さず、レシピ、名前とビジョン、取引先との姿勢というように、渡すものを先に決めてから相手を探しています。中川政七商店は、親族の外へ渡せる財務(個人保証のいらない状態)を先に作っています
危機の直後に、誰へ渡すか(2章)石屋製菓、こゆ財団、サタケ次の代へ直接渡さず、けん制の仕組み、経営の実績、非同族の体制など、その時点で足りないものを持つ人を間に置いています。石屋製菓では間に入った社長が「次は創さんだからね」と伝え続け、6年後に創業家へ戻しました
引き継ぎの時間が急に消えた(3章)いろどり、餃子の雪松、タルマーリー後継者が複数の部門を経験していた、先代にしかできない判定を先に済ませていた、という準備で間に合わせています。間に合わなかった分は経営者本人が現場に戻っています
廃業寸前の状態で引き受けた(4章)飛騨産業、ヤッホーブルーイング、玉川堂、浅野撚糸外から新しいものを持ち込まず、節のある木材、放置した通販サイト、鎚起銅器の技術、失敗した糸という手元にあったものの使い方を変えています。回復には5年から20年かかっています
先代や家族に反対された(5章)マルカワみそ、黒川温泉反対を押し切っていますが先代を否定せず、後から先代の言葉を判断の根拠として使っています。マルカワみそは、有機への転換から有機JAS認定まで9年の赤字を耐えました
外から来て警戒された(6章)いろどり、黒川温泉、こゆ財団、玉川堂警戒を「当然」と受け止め、説得ではなく、予算の出どころを変える、成果で示す、という形で越えています。しがらみがないことを判断の自由として使った会社もあります
継いだ後に何の会社かを決め直した(7章)能作、サタケ、甲子化学工業、四万十ドラマ技術と現場は変えず、下請けからメーカーへ、町工場から企業へ、第三セクターから住民株主の会社へと、定義と売り方を変えています。能作は約20年で売上を1.3億円から18億円にしました

参考資料一覧

この記事は、次の個社記事から事実と発言を抜粋しています。各社の一次資料(公式サイト、取材記事、開示資料)は、それぞれの記事の参考資料一覧に載せています。

数字で見る承継の時間

会社承継の場面で起きたこと時間出典
餃子の雪松3代目の甥がレシピを教わり、開業までにかかった時間。3代目は開業の1年後に逝去2年個社記事(高野内氏の発言)
いろどり副社長就任から2年で引き継ぐ計画が、創業者の緊急入院で短縮された2週間個社記事(粟飯原氏の発言)
中川政七商店13代目が家業に戻ってから、創業家以外へ社長を渡すまで16年(2002年から2018年)個社記事
能作婿養子として入り、職人として全工程を経験してから社長に就くまで18年(1984年から2002年)個社記事
玉川堂問屋を外して百貨店へ直接売り込んでから、初の直営店を開くまで18年(1996年から2014年)個社記事
飛騨産業「最後の始末を」と頼まれた社長が、会長として次の代へ渡すまで21年(2000年から2021年)個社記事
石屋製菓2007年の問題から、創業家の石水創氏が社長に就くまで6年(2013年就任)個社記事
マルカワみそ有機の原料づくりを始めてから、有機JAS認定工場になるまで(赤字が続いた期間)9年(1992年から2001年)個社記事
サタケ創業から、初めて創業家以外の社長が就くまで125年(1896年から2021年)個社記事
こゆ財団議会対策で外部から迎えた代表が、設立を提案した本人へ戻るまで8年(2017年から2025年)個社記事

数字の読み方を、先に2点断っておきます。1つは、ここに載せた年数はいずれも個社記事に書かれた事実から数えたもので、各社が「承継に何年かけた」と公表した数字ではありません。2つ目は、時間の長さと承継の良し悪しは別だということです。2週間で引き継いだいろどりも、18年かけた能作も、この記事では同じ重さで扱います。

1. 親族の外へ、渡すことになった

起きたこと

3社で、会社を親族の外へ渡すことになりました。理由はそれぞれ違います。餃子の雪松の元になった中華食堂「お食事処 雪松」では、4代目を継ぐ予定だった息子と妻が病気で相次いで亡くなりました。中川政七商店では、13代目の中川淳氏が、2018年に創業家以外の千石あや氏へ社長を渡し、2025年には会長職と襲名した名前も返上しました。サタケでは、4代続いた創業家の後に、創業家の中で次の社長を立てませんでした。

それぞれの会社がどうしたか

餃子の雪松は、店を継がずにレシピだけを引き受けました。 群馬県みなかみ町の「お食事処 雪松」は1940年創業の中華食堂で、3代目店主の松井茂氏には後継者がいませんでした。甥にあたる長谷川保氏は飲食業の出身ではなく、1000円カットや不動産の事業を営んでいた人です。餃子の雪松は、店舗も従業員も屋号も引き継がず、レシピだけを東京の別法人である株式会社YESで引き受けました。2016年から冷凍生餃子の試作を始め、3代目からレシピを教わって再現し、2018年9月に埼玉県入間市で1号店を開いています。開店時に3代目に試食してもらい、次の言葉をもらいました。

「これなら全く一緒だよ。もう作るのが大変だから、お前のところから仕入れるよ」

本店は群馬に残したまま、製造と販売は埼玉の自社工場と東京の運営会社が担う形です。店を継ぐ人はいなくても、レシピを継ぐ人はいた、という分け方で承継が成立しています。

中川政七商店は、親族の外へ渡せる財務を先に作りました。 中川淳氏が2002年に家業へ戻ったとき、年商は約12億円で、父が担当する茶道具部門が黒字、母が担当する麻雑貨部門が赤字という状態でした。中川氏は赤字部門を1、2年で黒字にし、2007年に「日本の工芸を元気にする!」というビジョンを掲げ、卸から直営店中心へ切り替えています。中川政七商店が創業家以外へ渡す準備として最初に手を付けたのは、財務でした。

「中川家以外の人に引き継げる状態というのは、つまりは個人保証のいらない経営状態になるということ。財務的によくするという意味も含めて、『ちゃんとした会社にしたい』と思っていました」

2018年、生活雑貨事業52億円、直営51から52店舗、従業員400人弱の規模で、千石あや氏へ社長を渡しました。中川氏は2025年に会長職と襲名した「中川政七」の名前も返上し、会社を離れています。社長の個人保証が必要な状態では、同族以外には渡しにくくなります。承継先の選択肢の広さが、財務の状態で決まっていた例です。

サタケは、社長と会長の両方を創業家以外にしました。 サタケは1896年の創業から4代、佐竹家の社長が率いてきました。2021年6月、創業から125年で初めて、1991年入社の松本和久氏が社長に就いています。同時に会長も創業家ではなく、1969年入社の福森武氏が就きました。松本氏は、引き継ぐものと変えるものを分けて語っています。

「創業から4代続いて佐竹家の社長が会社を率いてきましたが、5代目の私は生え抜き社員から初めての社長になりました。創業家の歴代社長は研究熱心で真面目。従業員のことを『家族』といって大切にし、仕入れ先や販売代理店、据え付け工事の発注先などのパートナー企業も大事にしていました。そうした姿勢は引き継いでいきたいと思います」

「一方、カリスマ性をもって会社を率いていた創業家とは違って、生え抜きの私は、従業員の皆と一緒にやっていかなければならないという思いがあります」

引き継ぐものは人と取引先を大事にする姿勢、変えるものは意思決定の仕方です。

共通点と分かれ目

3社に共通しているのは、会社を1つの塊として渡そうとしていない点です。雪松はレシピだけ、中川政七商店は名前とビジョン、サタケは「人と取引先を大事にする姿勢」というように、渡すものを先に決めています。渡すものが決まると、渡す相手が親族の外に広がります。

分かれ目は、渡す前に何を整えたかです。中川政七商店は、個人保証のいらない財務を16年かけて作ってから渡しました。サタケは、カリスマ経営者がいなくなる前提で、社長1人ではなく4名の代表体制にしてから渡しました。雪松は、時間がない中で、レシピの再現と3代目の試食という「判定」だけを先に済ませています。整える時間があるかどうかで、整えるものが変わっています。

私たちは間違ってはいけない戦略の順番|ビジョン→事業→商品→営業→組織という記事で、戦略には順番があり、最初に「何のために事業をやるか」を決めるという考え方を書きました。3社の承継を読み解くと、渡す相手を探す前に、何を渡すかを決めているという同じ順番が表れています。

自社に当てはめるなら

最初にやることは、自社を「移せるもの」と「移せないもの」に分けて書き出すことです。製法、名前、方針、取引先との関係、店舗、従業員、借入と個人保証、というように並べると、親族の外へ渡すときに何が障害になるかが見えます。

  • 自社を分解したとき、製法・名前・方針・取引先のうち、どれが移せるものか
  • 社長の個人保証が、承継先の選択肢を狭めていないか
  • 後継者を探す前に、渡すものと渡さないものが決まっているか

2. 危機の直後に、誰へ渡すか

起きたこと

不祥事や議会の反対のように、会社や組織が信用を失いかけた直後に、次の代へ直接渡さなかった例が3社あります。石屋製菓は2007年8月、賞味期限の改ざんと一部製品からの細菌検出を公表し、操業停止の行政処分を受けました。こゆ財団は設立の段階で、議会から「役場の職員なのに、法人の経営なんかできるのか」という懸念が出ました。サタケは、創業家から非同族へ渡す際に、社長だけを交代させませんでした。

それぞれの会社がどうしたか

石屋製菓は、創業家へ戻す前に、外部の社長が仕組みを作りました。 2007年の問題で石水勲社長が辞任し、北洋銀行出身の島田俊平氏が社長に就きました。外部委員会は原因を「ファミリービジネスの域を脱しないまま大型化した」ことに求め、衛生管理・コンプライアンス・労務管理の3つの体制の改善を求めています。石屋製菓は6つの新組織を設け、内部通報制度を導入し、内部監査室に弁護士と公認会計士を置き、製造部長を森永製菓から招きました。売上ゼロの期間は3か月続いています。島田氏はその後も社長を務め、当時副社長だった石水創氏に「次は創さんだからね。だからその準備をして下さいね」と伝え続けました。石水創氏が31歳で社長に就いたのは、2013年7月です。

こゆ財団は、議会を通すために外部の代表を迎えました。 設立を提案したのは新富町役場の職員だった岡本啓二氏です。議会の懸念に対して、岡本氏は自分が代表になるのではなく、外部の地域プロデューサーである齋藤潤一氏に代表を打診しました。

「代表に就いてもらえませんか。でないと議会で通らず、この企画はつぶれます」

齋藤氏は責任の重さから一度は断っていますが、一緒に適役を探す過程で職員の本気度を見て引き受けました。こゆ財団の代表理事は、8年後の2025年6月に岡本氏へ交代しました。設立時は議会を通すことが課題で、外部のプロが代表であることに意味がありました。8年後は地元との関係が課題になり、地元出身の提案者が代表であることに意味が移っています。

サタケは、社長1人ではなく4名の代表体制にしました。 サタケの2021年の交代では、社長を松本和久氏、会長を福森武氏、副会長を木原和由氏、名誉会長を創業家の佐竹利子氏とする4名の代表体制になりました。福森氏は2023年3月に名誉相談役へ退き、現在の会長は木原氏です。社長1人を創業家以外にしたのではなく、経営の中枢を段階的に非同族へ移した形です。

共通点と分かれ目

3社に共通しているのは、危機や反対のあった直後に、その時点で会社に足りないものを持つ人を間に置いたことです。石屋製菓に足りなかったのはけん制の仕組み、こゆ財団に足りなかったのは経営の実績、サタケに足りなかったのはカリスマ経営者がいない前提の体制でした。間に入った人の出どころは、取引銀行、外部のプロデューサー、生え抜き社員とばらばらです。

分かれ目は、間に置く期間の終わり方です。石屋製菓は、外部の社長が「次は創さん」と後継者を名指しし、6年で創業家へ戻しました。こゆ財団は、課題が議会から地元へ移った8年後に、提案者へ戻しています。サタケは戻す前提を置かず、非同族の体制を続けています。間に置いた人が「いつまで」を決めていたかどうかで、その後の形が違います。

私たちはマネジメントとは、今のリソースでやりくりすること、リソース調達力を上げること。バフ人材とデバフ人材を見極める。という記事で、リソースは社内だけでなく、外部ネットワークからも調達できると書きました。3社を読み解くと、承継の場面でも同じ考えで、足りないものを外から入れてから渡していることが分かります。

自社に当てはめるなら

最初にやることは、今すぐ次の代へ渡した場合に「足りないまま渡るもの」を1つ書き出すことです。けん制の仕組みか、対外的な実績か、意思決定の体制かが分かれば、間に置く人の条件が決まります。

  • 足りないものを持っている人は、社内・取引先・地域のどこにいるか
  • 間に置く期間の終わりを、年数か条件のどちらで決めるか
  • 間に入った人が、次の後継者を名指しできる関係になっているか

3. 引き継ぎの時間が、急に消えた

起きたこと

引き継ぐ相手の急病や急逝で、予定していた期間が消えた会社が3社あります。いろどりでは、副社長として2年かけて引き継ぐ計画が、株主総会の2週間後に崩れました。餃子の雪松では、レシピを教えた3代目が開業の1年後に亡くなっています。タルマーリーでは、経営者本人の入院と人手不足が重なりました。

それぞれの会社がどうしたか

いろどりは、2年の計画が2週間で終わりました。 いろどりの粟飯原啓吾氏は、経緯をこう語っています。

「もともとは、2025年5月の株主総会で副社長に就任する予定だったんです。そこから2年ほどかけて代表の引継ぎを行う予定でしたが、その総会のわずか2週間後に横石が緊急入院することになり、仕事への復帰が難しくなりました。そこで急遽、私が新代表に就任することになったのです」

創業者の横石知二氏は、2025年8月8日に66歳で亡くなりました。並走して学ぶ期間は、実際には存在しませんでした。それでも対応できたのは、粟飯原氏が2011年のインターンから14年間で、移住促進、彩の販売促進、情報システムの管理、後継者を育てる人材派遣と担当を移してきたからです。2020年に始めた後継者育成の事業は、社長就任の5年前から粟飯原氏が担当していました。承継の後に慌てて始めた施策ではなく、自分が担当してきた事業を社長として続けている形です。

餃子の雪松は、3代目の判定を先に済ませていました。 レシピの再現には時間がかかりました。3代目は「焼き方は、パチパチいっているのがチリチリしてから」というように経験則で調理しており、それを再現する作業から始まっています。餃子の雪松の高野内謙伍氏は、時間の制約をこう語っています。

「実は1年前に亡くなったんです(3代目店主のこと)。レシピを教わり同じ味を再現し、冷凍問題などいくつもの案件をクリアし販売形態を決めてオープンするまでに2年掛かりました。ホント、ギリギリだったと思います」

「これなら全く一緒だよ」という判定ができたのは、3代目だけでした。判定を先に済ませていたため、その後に3代目がいなくなっても、味は残っています。

タルマーリーは、経営者本人が現場に戻りました。 タルマーリーの渡邉格氏は、2023年8月に重度の糖尿病と診断され、3週間入院しました。同じ時期に深刻な人手不足が重なります。2025年春には製造を任せていたスタッフが独立し、常勤スタッフがゼロになりました。

「この春、パン製造を任せていたスタッフが、独立のために卒業した。そして私は、8年ぶりにパン作りの現場に戻った。(中略)そしてなんと8年前より技術が上がっていることを実感した」

同じ2025年、格氏は17年続けた「パン屋」をやめ、4軒の空き家をつないだ「智頭タルマーリー発酵研究所」へ転換すると宣言しています。健康と人手の問題が重なった中で、事業の形そのものを変える判断が出ています。

共通点と分かれ目

3社に共通しているのは、時間はこちらの都合では決まらない、という事実です。間に合った会社は、後継者が事前に複数の部門を経験していたか、先代にしかできない判定を先に済ませていました。

分かれ目は、時間が消えた後に誰が穴を埋めたかです。いろどりは、後継者の14年の経験が埋めました。雪松は、3代目が生きているうちに済ませた判定が埋めました。タルマーリーは、埋める人がいなかったため、経営者本人が現場に戻り、事業の形を変えています。埋めるものを事前に用意できていたかどうかが、その後の負担を決めています。

自社に当てはめるなら

最初にやることは、「先代にしかできない判定」を書き出すことです。味の合否、品質の見極め、取引先との約束のように、先代の頭の中にしかないものを時間があるうちに聞き取っておくと、渡す作業が具体的になります。

  • 先代にしかできない判定(味、品質、取引先との関係)は何か
  • その判定を、先代が元気なうちに済ませているか
  • 後継者は、1つの部門しか知らない状態になっていないか

4. 廃業寸前の状態で、引き受けた

起きたこと

売上が3分の1に落ちた、8年連続で赤字、廃業を視野に入れた、という状態で経営を引き受けた人が4社にいます。玉川堂は売上が3分の1に落ち、多額の借金を抱えていました。飛騨産業は輸入家具の増加で廃業も視野に入り、役員が地元の経営者だった岡田贊三氏に「最後の始末をしてくれ」と頼みました。ヤッホーブルーイングは地ビールブームが去った後、8年連続の赤字が続きました。浅野撚糸は仕事が中国へ移り、年商が7億円から2億円へ落ちました。

それぞれの会社がどうしたか

飛騨産業は、工場にあった「使えない材」を主役にしました。 飛騨産業の岡田贊三氏は、頼まれたときのことをこう振り返っています。

「最後の始末だなんて。本当にたまらなかったです。断るつもりで最後の会議に出ました。ところが、ある役員から『すべてを任せるから好きにしてくれ』と言われた時、なんだか嬉しくなって、気持ちが昂ったんです。断るつもりだったのに、思わず『やります!』と言ってしまって(笑)」

2000年に社長に就いた岡田氏が手を付けたのは、新しい設備ではなく、工場にあって節材として捨てられていた木材でした。「なぜ節があったら家具に使えないんだ?」という問いを起点に、2001年に節を主役にした「森のことば」シリーズを発表し、これが起死回生の商品になっています。岡田氏は「この20年、無我夢中で駆け抜けてきました。そしてようやく、水の底まで沈みかけていた会社が水面に顔を出した」と語り、2021年12月に岡田明子氏へ社長を渡しました。

ヤッホーブルーイングは、7年放置していた通販サイトに向き合いました。 井手直行氏は、8年連続の赤字の中で星野佳路氏に直談判しました。返ってきた言葉が残っています。

「でもさ、本当にすべてをやり尽くしたのかなぁ」「とことんやってみようよ。それでもダメだったら、会社を畳んで、湯川で一緒に釣りでもしながらのんびり暮らそう」

転機は、退職した社員のロッカーから出てきた1997年6月の楽天の手紙でした。ヤッホーブルーイングは楽天市場のオープン1か月後に出店していましたが、7年近く開店休業のままでした。向き合ってみると、店頭で売れなくなっていた「よなよなエール」がネットではそこそこ売れていたことが分かります。ここから通販を主軸に立て直し、2005年から3年連続で年率30%超の成長を達成し、2008年に井手氏が社長に就きました。

玉川堂は、技術を変えずに流通を全部変えました。 バブル崩壊で売上が3分の1に落ちた1995年、大学3年生だった玉川基行氏は父から「玉川堂が潰れそうだから、すぐに入社して営業として売り上げを作ってほしい」と言われて入社しました。この年、30名いた職人の半数を解雇し、基行氏自身も1年ほどほぼ無給で販路開拓に回っています。翌1996年、玉川堂は産地問屋から百貨店問屋を経て百貨店へ渡る従来の流通をすべて外し、百貨店へ直接売り込んで実演販売を始めました。取引百貨店は30店を超え、5年ほどで経営危機を脱しています。2014年には東京・青山に初の直営店を開き、直営に切り替えると売上が3割落ちると分かった上で、顧客の声が届く形を選びました。鎚起銅器の技術そのものは変えていません。

浅野撚糸は、失敗した試作品が主力商品になりました。 2000年代に仕事が中国へ移り、浅野撚糸の年商は7億円から2億円へ落ちました。自社に借金はありませんでしたが、浅野雅己氏が説得して機械を導入した10軒の協力工場に借金が残っていました。この人たちを見捨てないために廃業せず、「どうせ廃業するなら限界まで挑戦したい」として、お湯に溶ける糸を使った撚糸「SUPER ZERO」を開発しています。開発の失敗作として捨てなかった糸が、2007年6月に発売したタオル「エアーかおる」につながりました。社員を3分の1にする調整も、同じ時期に行っています。

共通点と分かれ目

4社に共通しているのは、危機の会社を引き受けた人が、外から新しいものを持ち込んでいないことです。節のある木材、放置していた通販サイト、鎚起銅器の技術、失敗した糸は、どれも引き受けた時点で会社の中にありました。変えたのは、それをどう使うかです。もう1つの共通点は、回復に時間がかかっていることです。玉川堂は危機を脱するまで5年、飛騨産業は「水面に顔を出した」と本人が語るまで20年です。

分かれ目は、守ると決めた相手です。浅野撚糸は協力工場10軒と社員を守るために廃業を選びませんでした。玉川堂は鎚起銅器の技術を残すために、職人の半数を解雇し、流通を変えました。飛騨産業は「すべてを任せる」という条件があったため、業界の常識を疑うところから入れました。何を守るかが決まっていた会社ほど、何を捨てるかの判断が早く出ています。

私たちは地方企業やスタートアップに共通する、低リソース・ブランド無しの戦わない戦略という記事で、資源の限られる企業は大手と同じ土俵で競わず、自社の強みを活かせる市場や手法を選ぶと書きました。4社を読み解くと、危機の状態で新しい設備投資に踏み込むのではなく、手元にあるもので勝てる場所を選び直しており、私たちが記事に書いた考え方と同じ考えが表れています。

自社に当てはめるなら

最初にやることは、自社の中で「使えない」「もう終わった」「放置している」と呼ばれているものを1つずつ書き出すことです。材料、販路、技術、試作品のどれかに、別の使い方が残っていることがあります。

  • 自社の中で「使えない」「もう終わった」と呼ばれているものは何か
  • 危機のときに守る相手(社員、協力工場、技術)を、先に決めているか
  • 回復に5年から20年かかる前提で、資金と人を考えているか

5. 先代や家族に、反対された

起きたこと

新しい方針を、先代や家族に猛反対された例が2社にあります。マルカワみその河崎宏氏は、「無添加で無農薬のみそを造りたい」という進言を先代に「できない、売れない」と却下されました。黒川温泉の後藤哲也氏は、自分の宿の裏山を掘って洞窟風呂を作る計画を、父親に猛反対されています。

それぞれの会社がどうしたか

マルカワみそは、9年の赤字を耐えて有機を続けました。 河崎宏氏は東京農業大学の在学中に食品汚染に関する本を読み、家業に戻りました。先代に却下され、周囲の反応も同じでした。

「そんなものできんし売れんし、あかん」

それでも1992年、37歳のときに実家の農地を借りて無農薬で大豆を作り始めます。作れば作るだけ赤字が続き、父親から「ビジネスとして成立していない。もうやめておけ」と言われました。それに対する答えが残っています。

「売れる、売れないじゃない。食べ物は、命の源だ。人の命を削るようなものを作って売りたくない」

マルカワみそは2001年、北陸の味噌業界で第1号となる有機JAS認定工場の認証を取得しました。転換から認定まで9年、その間は赤字です。ただし、自社で農地を持つ方法は2000年に手放し、専業農家との提携に切り替えています。有機という方針は変えず、手段だけを変えました。一方で、天然醸造にこだわる理由を聞かれたとき、河崎家では先代の言葉がそのまま使われています。

「おやじ、なぜうちは天然でやっているんだ?」「その方が、うまいからだ」

黒川温泉は、1軒の宿の裏山から始まりました。 黒川温泉の新明館の3代目、後藤哲也氏は、こう語っています。

「父親に相談したら、猛反対でしたな。『事故が起きたらどげんするとじゃ。やめとけ』言うて。しかし、僕はほかに生きる道はないという思いがあったもんだから、反対を押し切って計画を断行したとです」

電気ドリルはなく、ノミと金槌で掘り進めました。岩盤にぶつかると朝から晩まで掘っても2センチほどしか進まない日もあったと語られています。3年ほどで入浴できる空間ができ、女性専用風呂や混浴風呂と拡張を続けて、10年後に現在の形になりました。この1軒の動きが、後の温泉街全体の景観づくりと入湯手形につながっています。

共通点と分かれ目

2社に共通しているのは、反対を押し切ったことと、先代を否定することが別になっている点です。河崎宏氏は有機への転換を押し切りましたが、天然醸造の理由は先代の「その方が、うまいからだ」で説明しています。後藤氏も「ほかに生きる道はない」という自分の状況認識を理由にしており、父親の判断を間違いだとは言っていません。

分かれ目は、反対の理由の種類です。マルカワみその反対は採算(「売れない」)でした。黒川温泉の反対は安全(「事故が起きたら」)でした。採算の反対に対しては、9年の赤字を既存の事業で支えながら続けることで答えています。安全の反対に対しては、自分の手で3年かけて掘ることで答えています。反対の理由を「採算」「安全」「慣習」と分けて見ると、押し切った後に先代の判断のどこを残すかが決めやすくなります。

自社に当てはめるなら

最初にやることは、先代の反対の理由を1つの言葉にすることです。「売れない」なのか「危ない」なのか「うちのやり方ではない」なのかで、答え方が変わります。

  • 先代の反対の理由は、採算か、安全か、慣習か
  • 押し切った後に、先代の判断のうち残すものを決めているか
  • 反対された方針を、後から先代の言葉で説明できるか

6. 外から来て、警戒された

起きたこと

親族の外から来た経営者や後継者が、地域や組織から警戒された例が4社あります。いろどりの横石知二氏は、徳島市の公務員家庭で育ち、営農指導員として上勝町に赴任した人でした。黒川温泉の北里有紀氏は、代表理事に就いた後、外部の企業と組む提案を組合に却下されました。こゆ財団の齋藤潤一氏は、議会を通すために外から迎えられた代表でした。玉川堂の玉川基行氏は、大学3年生で家業に呼び戻されています。

それぞれの会社がどうしたか

いろどりは、拒絶された場所で40年続けました。 いろどりの横石氏は、集会でこう言われました。

「ある集会の場で『今のやり方ではだめだと思います。変えるべきではないでしょうか』とぶつけてみたら、『よそ者のおまえに何ができるんな。いやだったら出ていったらええやないか』と叱りとばされてしまった」

横石氏は「みんなが否定するところに大資本は入ってきませんから、ビジネスチャンスはあると思っていました」とも語っています。着想した葉っぱビジネスは、当初「こんなものは使えない」と返品が続き、横石氏は自費で料亭に通って要件を聞き取りました。40年後に同じ会社を引き継いだ粟飯原氏も、大阪府高槻市の出身で、上勝町に地縁のない人です。

黒川温泉は、条件のほうを変えて組合を通しました。 2015年に組合史上最年少かつ女性で初めての代表理事になった北里氏は、外部の企業と組む提案をしました。組合の反応が記事にそのまま残っています。

「東京の大企業なんてあやしい。だまされとる。冷静になって頭を冷やせ」

北里氏は、この反応を自分の側の問題としても振り返っています。

「今思えば、話の持っていき方がまずかったな、とも思います。数十年にわたって、外部の力を借りることなく、自分たちだけの力で黒川温泉を守ってきた親世代が、外部の、しかも東京という大都会の会社からの提案を警戒するのは当然です」

止まった話を進めたのは、町役場に相談して、組合の予算を使わずに補助金で賄う形に変えたことでした。黒川温泉の世代交代はその後進み、北里氏は「クーデターのような、若手世代が親世代を否定するようなもの」ではなかったと説明しています。

こゆ財団は、成果を出すまで続けました。 こゆ財団の齋藤氏は、こう語っています。

「外から入ってきた人間なので、最初はどうしても懐疑的な目で見られることが多かった。でも、ふるさと納税で新富町が潤い、空き家を再生した店舗作りで成果が出たことにより、循環型で経済が回るようになりました。地道にコツコツと活動を続けてきました」

議会を通すために外から迎えた人が、今度は地域から懐疑的に見られるという形で、立場によって同じ人が別の意味を持つことになりました。

玉川堂は、しがらみのなさを使いました。 玉川堂の玉川基行氏は、「よそ者」ではなく「しがらみのない若造」として受け止められたと記事に書いています。問屋をすべて外すという判断ができたのは、産地の中の取引関係に縛られていない立場があったからでもあります。

共通点と分かれ目

4社に共通しているのは、警戒された側が、警戒した側を否定していないことです。北里氏は親世代の警戒を「当然です」と書き、齋藤氏は成果を出すまで「地道にコツコツ」続けたと語っています。警戒を説得で解こうとした記録は残っていません。

分かれ目は、越え方です。黒川温泉は反対の理由(組合の予算)を外すという条件の変更で越えました。こゆ財団といろどりは、時間をかけて成果で示しました。玉川堂は、警戒されにくい立場を判断の自由として使いました。反対の理由が「予算」のようにはっきりしているときは条件を変えられますが、「よそ者だから」という理由には成果で答えるしかない、という違いがあります。

自社に当てはめるなら

最初にやることは、外から人を迎えるときに、警戒が起きる前提で「何年で何を見せるか」を決めることです。警戒は必ず起きるので、起きたときの答え方を先に持っておくと、途中で止まりません。

  • 警戒の理由が、予算か、実績か、人柄かを分けているか
  • 条件を変えて越えられる反対と、成果でしか答えられない反対を分けているか
  • しがらみがないことを、判断の自由として使える場面はどこか

7. 継いだ後に、何の会社かを決め直した

起きたこと

継いだ直後に、下請け、町工場、第三セクターという立場のままでは先がないと分かった会社が4社あります。能作は仏具や茶道具や花器を作る下請けの鋳物工場でした。サタケの3代目は、米国育ちの佐竹覚氏でした。甲子化学工業は、営業部門を持たず商社からの受注で回る社員16人の町工場でした。四万十ドラマは1994年に1町2村の出資で作られた第三セクターでした。

それぞれの会社がどうしたか

能作は、下請けからメーカーへ定義し直しました。 1984年、新聞社のカメラマンだった能作克治氏が、婿養子として社員8人の下請け鋳物工場に入りました。18年間職人として現場に立ち、2002年に社長へ就任しています。能作が2001年に出した初の自社商品、真鍮の卓上ベルは3か月で30個しか売れませんでしたが、販売員の一言で風鈴に変えると同じ期間で3,000個売れました。2003年には他産地と競合しない錫100%の食器を実用化し、「曲がる」性質を特徴にしたKAGOシリーズはニューヨーク近代美術館のデザインストアにも並んでいます。2017年には売上13億円の年に16億円をかけて産業観光型の新社屋を建て、工場見学者は年間13万人になりました。売上は克治氏の約20年で1.3億円から18億円になり、2023年に長女の千春氏が5代目社長を継いでいます。

サタケは、町工場からビジョンを持つ企業へ変わりました。 サタケの松本社長は、3代目の役割をこう説明しています。

「3代目の覚の入社ですね。覚が入ってこなかったら、利市と利彦が培ってきた技術力を生かした、田舎の製作所で終わっていた可能性もあります。覚が加わったことで、町工場からビジョンを持ち社会貢献までを目的とした企業へと変革を遂げることができました。米国の大学で覚と知り合った利子が生前、『私の一番の功績は覚を日本に連れてきたこと』と話していたのを思い出します」

3代目の覚氏と4代目の利子氏は夫婦です。サタケの創業家は、血統だけでなく婚姻によって外部の人材を経営に迎え入れ、その人が会社の定義を変えました。

甲子化学工業は、本業を残したまま新素材で上書きしました。 1969年創業の甲子化学工業は、事務什器などのプラスチック部品を商社経由で受注する、営業部門のない会社でした。3代目候補の南原徹也氏は大手ゼネコンで施工管理を経験した後、2019年に入社しますが、名刺の社名が変わっただけで展示会でも商談でも相手にされない状態から始まっています。転機は2020年、医療現場向けのフェイスシールドの寄付と、ドアを手で触らずに開ける「アームハンドル」の開発でした。2022年12月には、北海道猿払村で処理費用がかかっていたホタテの貝殻を原材料にしたヘルメット「HOTAMET」を発表し、大阪・関西万博のCo-Design Challengeに選ばれています。射出成形の本業は残したまま、その上に新素材の事業を重ねる形の承継です。

四万十ドラマは、第三セクターから住民株主の会社になりました。 四万十ドラマは1994年11月、1町2村が各800万円を出資する第三セクターとして設立されました。畦地履正氏が「地元には何も資源がない」と漏らしたところ、デザイナーの梅原真氏に「四万十川や鮎、しいたけなど良い資源があるじゃないか」と一喝され、地元の素材と技術に絞る方針が生まれています。2005年に完全民営化し、住民202名が株主になりました。行政の出資であれば方針は行政の判断に左右されますが、住民が株主であれば、株主の顔ぶれがそのまま地域の人になります。

共通点と分かれ目

4社に共通しているのは、技術や現場を変えていないことです。能作の鋳物の技術も、サタケの精米機も、甲子化学の射出成形も、そのまま残っています。変えたのは、何をする会社かという定義と、売り方や相手です。もう1つの共通点は、定義を変えた人の立場です。婿養子、米国育ちの3代目、ゼネコン出身の3代目候補、デザイナーの一喝を受けた第三セクターの担当者というように、その会社の内側だけで育った人ではありません。

分かれ目は、定義を変えた後に何を足したかです。能作は自社商品と工場見学という「来てもらう場所」を足しました。サタケは海外展開と業務の効率化を足しました。甲子化学は毎日の発信と新素材の開発を足しました。四万十ドラマは3つの「ロー」という判断の基準を足しています。定義を変えただけでは売上は変わらず、定義に合わせて足したものが結果を作っています。

私たちは1章でも触れた戦略の順番の記事で、手元のリソースから考え始めると現状維持型の戦略になると書きました。4社を読み解くと、代替わりの時点で「今いる職人と設備で何ができるか」ではなく「何の会社か」から決め直しており、私たちが記事に書いた順番と同じ考えが表れています。

自社に当てはめるなら

最初にやることは、自社を一言で「何をする会社か」と言い直してみることです。「〇〇の下請け」「〇〇の町工場」という言い方しか出てこないなら、定義を変える余地があります。

  • 自社は、下請け・町工場・第三セクターのどれに近い立場か
  • 代替わりのときに、何の会社かを言葉にし直したか
  • 定義を変えた後に、それに合わせて何を足すか

本事例から見える経営とマーケティングの学び

承継の問題は、会社ごとに違って見えますが、並べると3つの時期に収まります。継ぐ前の問題は「誰に何を渡すか」、継ぐときの問題は「時間と状態」、継いだ後の問題は「反対と警戒と定義」です。この記事で扱った16社は、どの時期の問題も、外から何かを持ち込んで越えたのではありません。会社の中にあるものを分解して渡す、使い直す、決め直すことで越えています。

同時に、どの会社も時間がかかっています。2週間で引き継いだいろどりは、その前に14年の準備がありました。玉川堂の直営1号店は問屋を外してから18年後です。中川政七商店は、親族の外へ渡せる財務を作るのに16年かけました。承継を1つの出来事として扱うのではなく、継ぐ前から継いだ後まで続く期間として見ることが、この記事から持ち帰れる部分です。

もう1つ、各章の「分かれ目」で見たとおり、同じ問題を越えた会社でも条件は違います。守る相手が協力工場か技術か、反対の理由が採算か安全か、警戒の理由が予算か実績かで、答え方が変わります。自社の条件がどの会社に近いかを見てから、その会社の記事を読むと、当てはめやすくなります。個社の経緯は、各章のリンク先で読めます。

「ビジネス知の機会格差をなくす」という私たちのミッションに向けて、これからも実践的で価値ある情報を発信していきます。この記事の内容について、さらに詳しく知りたい方は、ぜひご連絡ください。