ローカルグローススタジオは、『地方企業にスタートアップのような成長を』というテーマで、コンテンツ発信と支援サービスを展開しています。この記事では、実践的なビジネスノウハウを、できるだけわかりやすくお伝えしていきます。
今回取り上げるのは、奈良県奈良市の株式会社中川政七商店です。1716年(享保元年)、初代中屋喜兵衛が奈良晒(ならざらし)という麻織物の商いを始めて以来、300年以上続く老舗です。13代目にあたる中川淳氏が2002年に家業へ入り、卸中心だった商売を製造小売(SPA)へ組み替え、2007年に「日本の工芸を元気にする!」というビジョンを掲げました。2018年には創業家以外から千石あや氏を14代目社長に迎え、2025年2月には中川氏自身が会長を退任し、襲名した「十三代 中川政七」の名も返上しています。2026年2月期の売上高は103億2000万円、全国67店舗、従業員618名(2025年2月期)です。
家業を継ぐ経営者は、引き継ぐ会社を選べません。与えられた会社の中の何を変え、何を守るかの見極めがすべてになります。中川政七商店が示すのは、変える順番を「ビジョンから」に固定し、最後は自分自身も渡す対象に含めた承継です。家業を継いだ方、これから継ぐ方に向けた事例として読み解きます。
この記事の要約
先にストーリーの全体像です。中川淳氏が2002年に家業へ戻ったとき、会社の年商は約12億円で、父が担当する茶道具部門が黒字、母が担当する麻雑貨部門が赤字という状態でした。中川氏は自ら願い出て赤字部門へ移り、1、2年で黒字にします。ところが黒字化した途端に「では何のために働くのか」という問いに突き当たり、2、3年考えた末に出てきたのが「日本の工芸を元気にする!」というビジョンでした。2007年のことです。以後の打ち手は、すべてこのビジョンから逆算されています。卸から直営店中心へ切り替えるSPA化、2009年から始めた他社への経営コンサルティング、2011年に始めた合同展示会「大日本市」、2021年に創業地の奈良で開いた複合施設「鹿猿狐ビルヂング」。2018年には創業家以外の千石あや氏へ社長を譲り、2025年2月には会長職と襲名した名前の両方を返上して会社を離れました。同社の売上高は2026年2月期に103億2000万円と初めて100億円を超え、2026年6月には工芸メーカーへの出資という新事業を始めています。
このストーリーから持ち帰れる観点は、次の7つです。それぞれ本文の章で事実を確認し、最後の7章で説明し直します。
1. ビジョンを先に決めたことで、その後の経営判断が速くなっている(2章)
2. 同業を助けることが、自社の事業になる設計になっている(3章)
3. 承継が、名前も含めて手放し切る形で完了している(5章、6章)
4. 創業家以外に渡す準備が、財務から始まっている(全体)
5. 先代が引いた線を、次の代が引き直している(全体)
6. 「代」と「名前」が、分けて扱われている(全体)
7. 会社を続けること自体が目的になっていないかを、問い直している(全体)
各章の末尾に、ローカルグローススタジオの分析と「この事例から考えられること」をまとめています。
参考資料一覧
- 中川政七商店 公式サイト 会社概要、沿革、精神(Sprit)、産地支援事業
- 中川政七商店 公式ニュース「役員人事について」(2025年3月3日。会長退任と襲名返上)
- 中川政七商店 プレスリリース「鹿猿狐ビルヂング」開業(2021年2月12日)
- Forbes JAPAN「中川政七商店の会長を50歳で退任した理由」(2025年3月14日、中川淳氏本人執筆)
- 日立 Executive Foresight Online 中川淳氏インタビュー 前編・後編(2016年12月7日)
- TKC「戦略経営者」2012年4月号 中川淳氏インタビュー
- ファクトリエ「中川政七さんに聞く、”全てビジョンからはじまる”という考え方」
- 中川政七商店 読みもの「300年企業の社長交代。中川政七商店が考える『いい会社ってなんだろう?』」(2018年6月22日)
- 中川政七商店 読みもの「トップダウンから最強のチームワークへ。14代千石社長と中川政七商店302年目の挑戦」(2018年7月23日)
- ポーター賞「2015年度受賞企業レポート 中川政七商店」(一橋大学大学院)
- 経済産業省 METI Journal ONLINE「ビジョンドリブンの経営」千石あや氏インタビュー(2025年1月29日)
- PRESIDENT Online「中川政七商店 悩まない現場づくりでV字回復」(2025年5月30日)
- WWDJAPAN「『ビジョン51%、利益49%』を貫く中川政七商店、千石あや社長が語る”全社最適”の経営哲学」(2025年11月7日)
- ログミーBusiness 中川淳氏『ビジョンとともに働くということ』出版記念イベント(2022年5月30日)
- N.PARK PROJECT(奈良県)中川政七氏インタビュー
- PR TIMES「第17回 大日本市」159ブランド出展(2026年)
- 経済産業省 伝統的工芸品産業室 資料(2026年3月9日、業界統計)
- 関西テレビ「テレビ初告白 会長退任の舞台裏【中川政七商店】スペシャル対談第3弾」(中川淳氏・千石あや氏の対談)
- TOKYO FM「BRAND NEW LINK」千石あや氏 #16 1週目・#17 2週目(2026年)
- 中川政七商店・千石あや社長(2022年4月14日放送)
数字で見る中川政七商店の転換
| 時点 | 数字 | 出典 |
|---|---|---|
| 2002年(中川氏入社時) | 全社年商 約12億円(茶道具7割・麻雑貨3割)。麻雑貨部門は約4億円で赤字 | 本人談(TKC戦略経営者、公式読みもの) |
| 2007年 | 売上高15億円、店舗数16 | WWDJAPAN(2025年11月) |
| 2015年2月期 | 売上高42億8000万円、従業員305人、直営43店舗。売上構成は直営7割・卸2割・通販1割 | ポーター賞 受賞企業レポート |
| 2018年(社長交代時) | 生活雑貨事業52億円、直営51〜52店舗、従業員400人弱 | 公式読みもの |
| 2024年2月期 | 売上高86億8000万円 | 経済産業省 METI Journal |
| 2025年2月期 | 売上高92億3000万円、従業員618名 | 公式 会社概要 |
| 2026年2月期 | 売上高103億2000万円(前期比12%増、初の100億円超、4期連続で過去最高)、全国67店舗 | 公式プレスリリース(2026年6月3日) |
一方で、業界全体は縮んでいます。経済産業省の資料によれば、伝統的工芸品の生産額は平成10年度の2,784億円から平成28年度に1,000億円を下回り、その後も漸減しています。従業者数も平成10年度の約11.5万人から令和4年度には約4.8万人へ減りました。従事者の63.6%が50歳代以上、20歳代までは6.0%です。産地が縮み続ける中で、中川政七商店の生活雑貨事業は22年間で売上が20倍規模になっています。産地の他社がどう推移したかは今回の資料では確認できていないため、この記事では他社との比較ではなく、同社単体の推移として扱います。
1. 代替わりの前夜、赤字部門への異動を自分から願い出た
継いだ時の会社は、半分が黒字で半分が赤字だった
中川淳氏は1974年、奈良県生まれ。京都大学法学部を卒業後、2000年に富士通へ入社し、営業職として2年間働いたのち、2002年に家業へ戻りました。当時の会社の状況を、本人はこう説明しています。
「その後、今の生活雑貨事業の基礎となる遊 中川というお店が1985年オープン。2002年に僕が入社するのですが、当時の状況としては父親がやってた茶道具がしっかりと黒字を出し、母親がやってた麻の事業が赤字。最初は親父も多分、節税になればという感じでやっていたのですが、赤字が大きくなってこのままだとまずいぞ、というところで入社しました」
規模の内訳も語られています。
「02年に私が入社したときには、父が仕切る茶道具(第1事業部)のほうが、専務の母が商品企画を担当していた第2事業部(麻織物などを使った和雑貨)より規模は大きかったです。第1事業部が年商約12億円の7割、残りを第2事業部が占めていました。当時、当社には和雑貨を扱う『遊 中川』というブランドしかなく、それを卸(第2事業部売り上げの約8割を占有)と小売り(約2割)の2つのチャンネルで販売していました」
赤字部門を任されたのではありません。自分から移っています。
「入社当初は第1事業部に籍を置き、配送などの仕事をしていたのですが、週に1回は第2事業部にも顔を出していました。すると、どうも第2事業部の様子がおかしくて何を聞いても、誰からも納得のいく答えが返ってこない状態でした。例えば商品の生産数量を誰が決めているのかはっきりしないし、いま仕掛かり中の商品がいくつあるのかもわからないなど、一事が万事そんな調子でした。『これはまずい』と思い父に麻部門への異動を願い出て、こちらに専心するようになったのです」
「自分の責任で倒産したい」
黒字化そのものは、比較的早く達成しています。
「当初、赤字だった事業を必死に黒字化するために頑張って、1年か2年で黒字化できたんです」
その過程で下した判断が、後のSPA化につながります。当時の売上の4割を占めていた問屋経由の商売について、本人はこう語っています。
「家業を継ぐ際、僕はど素人だったんです。でも、ど素人だからこそ勉強しなきゃと思って、ひたすら勉強するを繰り返してきました。当時は、問屋さんの売上が4割ぐらいあったと思いますが、どこの問屋さんも調子は良くなくて、下手したら連鎖倒産もある。僕は、『どっちみち倒産するなら、自分の責任で倒産したい』と思ったんですよ。それが割と原点ですかね。だから、『お客さんの前まで自分たちで行って、それで売れなかったら自分たちが悪いよね』と。自分の責任で倒産しようと思った」
もう1つ、この時期に本人が繰り返し見ていた光景があります。
「当社は数百社の取引先とスクラムを組んで物を作っていますが、毎年3〜5社くらい”廃業”の挨拶にこられます。このまま行ったら、当社も物が作れなくなってしまうかもしれないと思ったからです」
自社の商売が回るかどうかとは別に、作り手がいなくなれば商品が作れなくなります。この危機感が、後のビジョンの土台になります。
この事例から考えられること
照らし合わせてみる項目
- 後継者の配属が、問題のある部門も含めて設計されているか
- 生産数量や仕掛かり在庫を、誰が決めているのか説明できるか
- 売上が1つのチャネルや取引先に集中していないか
- 仕入先や外注先の廃業を、年単位で記録しているか
- 黒字化した後に何を目指すかが、決まっているか
事例から読み取れること
1. 後継者が、数字の悪い部門を自分から取りに行っている
中川氏は配送の仕事から始め、週1回覗いていた赤字部門の異常に気づいて、自分から異動を願い出ました。任される場所を待つのではなく問題のある場所を選んだことが、その後の発言力の土台になっていた可能性があります。
2. 異常の見つけ方が、2つの質問に絞られている
生産数量を誰が決めているか、仕掛かりが何個あるか。この2つに答えが返ってこない部門は、数字以前に管理が成立していない、という見立てです。他の業種でも使える問いの立て方だと私たちは読みました。
3. 仕入先と外注先の廃業が、年単位で記録されている
毎年3社から5社という数字は、記録していたから語れる数字です。取引先の減少が自社の製造能力の減少と直結する業種では、この記録が、5年後の製造能力を見通す材料になります。
2. ビジョンを先に決める、「日本の工芸を元気にする!」
黒字にした後に、働く理由がなくなった
黒字化の後に訪れたのは、達成感ではなく空白でした。
「一方で、利益の追求のために、20年、30年とこの仕事やるのかと思ったら、ちょっと無理だなと思ったんです。2、3年考えた末に出てきたのが『日本の工芸を元気にする!』というビジョンだったんです」
「ビジョンが必要だと思った最初のきっかけの1つは、自分のためでした。会社に戻って最初の2〜3年目に立て直しをした時は、目の前の赤字もあって必死だったんです。でも黒字になると経営者はもうやることがないし、僕は飽き性なので、このままいけるなと思うと暇になったんです。これでは気持ちが持たなくて、残りの20〜30年は働けないなと思って」
父に相談した結果も語られています。
「世の中の会社、特に大手の会社には大抵ビジョンがあるものですがうちにはビジョンがない。そこで十二代である父親に聞いたんですが『社是も家訓もない。そんなもんあっても儲からんぞ』と言われました。でも会社の向かうべきところが利益以外にないと、この先10年、20年と頑張って働けない、と思いました。僕がそうなのだから、恐らく社員も同じだろうと。それ以降、2、3年はビジョンを探していました。その最後に降りてきたのが『日本の工芸を元気にする!』です」
ビジョンの中身は、精神論ではなく2つの条件で定義されています。
「まずは、工芸メーカーが経済的に自立していること。そして、ものづくりの誇りを取り戻すこと。この2つを満たすことが、『元気になった状態』だとわたしは定義しています」
「後継者不足は単なる結果です。工芸では食べていけないから、後継者が出てこないんです。食べていけない仕事を子どもに継がせようとは思わないですよね。だからこそ、工芸という仕事に対する誇りが必要です」
なお当初の表現は「日本の伝統工芸を元気にする!」で、後から「伝統」を外しています。理由も明確です。
「伝統工芸と聞いて消費者がまず思い浮かべるのは、例えば着物なんですよね。でも当社で扱っている布製品はハンカチやふきんなどですから、消費者の認識とは大きなズレがあります。それを解消するために”伝統”を外したというのが1つめの理由。それから、”伝統”という表現はある意味で産業に対する侮蔑だとわたしは思っているので。自動車産業は100年以上続いていますけど、だれも『伝統自動車産業』とは呼ばないじゃないですか」
社内の反応は「ポカーン」だった
ビジョンは、掲げた瞬間に機能したわけではありません。
「うちも最初にビジョンを言った時に、みんなが『ああ、それはいいビジョンだ』となってくれたかと言ったら、まったくそんなことなかったですからね。最初はぜんぜんポカーン状態でした。本当に『何言ってんの?』というところから始まって、それをコツコツやって、今となっては(いいビジョンだと)捉えていただいていますけど」
浸透のためにやったことも具体的です。
「店舗ができるたびに、オープン前のスタッフを集めてご飯に連れていって、『日本の工芸を元気にするということはどういうことなのか』を毎回毎回話しました。(中略)店舗スタッフにとっては雑貨屋のアルバイトに応募しただけなのに、いきなり社長が来てめっちゃ小難しい話をされる。私からすると、みんなの顔が萎えるのがすごくわかるんですよね」
「結局ビジョンはワークして初めて意味があるので、それをどれだけちゃんとワークさせられるかです。ではどれだけワークさせられるかは何で決まるかというと、言い出した人の圧倒的覚悟があるかどうかで決まるんじゃないかなと思います」
卸から直営店へ、SPAへの転換
ビジョンが決まると、事業の形が決まります。2002年に伊勢丹新宿店、2003年に玉川高島屋SC店へ出店し、直営店を軸にした製造小売(SPA)へ舵を切りました。反対もありました。
「当時社長だった父からは、少々反対されました。『お店は人件費もかかるし店頭在庫も持たなアカン。やめとけ、基本は卸や』と。確かに短期的に見れば、商売としてしんどいことはわたしも重々承知していましたけど、SPAしか中川政七商店が生きる道は無いと思ったので。『いや、やります』ということで押し切りました」
直営店を選んだ理由は、ブランドが伝わる場所を自社が持つことでした。
「ブランドはお客さまの頭のなかで作られるものですが、それはロゴやカタログなどの”タッチポイント”を通じて入ってくるさまざまな情報を、その人なりに頭のなかで整理・編集して作られます。ブランド力を底上げする方法として直営店の拡大を進めた理由は、ショップほどこのタッチポイントを数多く有しているものはないからです」
小売を始めると、ものづくりの体制ごと変える必要が出てきます。
「それまでは、年に1〜2回新作を出していれば充分事業を回せていました。ところが小売をやるとなると、百貨店のように2週間に1回のペースで店頭替えをして、常に売り場の鮮度を保たなければいけない。そのサイクルを成立させるために、商品企画の人員を増やすなどして、ものづくりの体制そのものを変える必要がありました」
「わたしが本格的にSPAに乗り出すまでは、業務のしくみも旧態依然としていました。店頭で商品が売れると紙に手書きでメモして、翌日本社にファックスする。それを本社の営業事務社員が一行一行パソコンに打ち込んで在庫調整をする。メーカーではそれが当たり前でしたが、そんなやり方で儲かるわけがないですよね」
同社は直営店の売上データを把握するための業務システムを独自に開発し、2週間に1度(年約26回)の店頭替えを回せる体制を作りました。
一方で、当初の目論見どおりにいかなかった部分も語られています。
「2002年に稼業に戻ってるのですが、ユニクロのフリースが1999年にヒットしており、SPAという言葉が世の中に拡がった時代でした。SPAにして大量に作るため、原価が抑えられて、利益率が上がると。ですので、うちも『SPAにしたら原価率が下がるのではないか』と思っていたのですが、工芸の世界は全然違ったんです。100個作ってるところに『1,000個作ってもらうので値下げしてください』と言いに行こうと思ったら、1,000個作るのが無理って断られるんですよね。そのため、『100個作ってくれるところを10件探す』という、逆にすごい難しいことをやらなきゃいけなくなってしまいました」
なおブランド展開は、2003年に「粋更kisara」を発表(フラッグシップの表参道ヒルズ店は2006年2月オープン)、2010年に社名を冠したブランド「中川政七商店」を立ち上げ、同年11月に京都で1号店を開いています。中川氏が13代目の社長に就任したのは2008年2月です。
ローカルグローススタジオの分析:戦略の順番を、ビジョンから固定している
私たちは間違ってはいけない戦略の順番|ビジョン→事業→商品→営業→組織という記事で、戦略には階層があり、ビジョンを最初に置いて事業戦略、商品戦略、営業戦略、組織戦略の順に決めるという考え方を書きました。手元のリソースから考え始めると、現状維持型の戦略に落ちるためです。
中川政七商店の進め方を読み解くと、私たちが記事に書いた順番と同じ順番で決めていることが分かります。ビジョン(日本の工芸を元気にする)を先に決め、そこから事業(製造小売と産地支援)、商品(工芸をベースにした生活雑貨)、営業(卸ではなく直営店)、組織(商品企画の増員と業務システム)を決めています。父から反対されたときも、「短期的にしんどい」という組織と資金の現実に合わせて事業を諦めるのではなく、押し切りました。この場面からも、同じ記事で書いた「下位戦略からのフィードバックを受け入れすぎない」と同じ考えが読み取れます。
そして、この順番を固定したことの効用を、本人が言葉にしています。
「どれもビジョンを達成するための手段。だから経営判断はラクですよ」
「ビジョンは掲げるだけでは、何もワークしません。まず社内に徹底的に浸透させなきゃいけませんし、経営レベルでも、『ビジョンを達成するために何をしなきゃいけないのか』というのがロジカルに展開されていかなきゃいけない。逆に言うと、ビジョン達成に繋がらない事業は基本やっちゃいけないと思うんです」
判断の基準が1つ決まっていると、個別の判断が速くなります。同社の場合、その基準は「ビジョン51対、利益49」という比率にまで具体化されています。公式サイトの説明です。
「事業を継続するために利益を上げることは大前提ですが、利益とビジョンがギリギリのところでせめぎ合ったとき、わたしたちはビジョンの達成を優先します。そんな判断基準を示す言葉が『ビジョン51対、利益49』です」
この比率は理念の掲示で終わっていません。千石あや社長によれば、年2回の人事考課で「マインド」の項目の最初に「ビジョン51%、利益49%で自分の仕事を進められたか」を置き、全社員が振り返る仕組みになっています。
この事例から考えられること
1. ビジョンに、達成した状態の条件が書かれている
「日本の工芸を元気にする!」には、経済的な自立と、ものづくりの誇りという2つの条件が定義されています。抽象的な言葉でも、達成条件が添えられていれば判断に使えるという例です。
2. ビジョンと利益の比率が、先に決まっている
「51対49」の要点は、利益を軽視していないことです。拮抗させたうえで、わずかにビジョンが勝つ。この比率が先に決まっていたことが、個別案件での判断を支えていたと読めます。
3. 浸透が、経営者が直接話す回数で進んでいる
新店舗ができるたびにスタッフを集めて話す、という方法が取られました。掲示や社内報ではなく、直接話した回数のほうに重心が置かれています。
4. 誤解が生まれた時点で、ビジョンの文言を書き換えている
「伝統工芸」から「伝統」を外した判断です。伝わり方がずれていると分かった時点で言葉を直す、という扱い方をしています。
3. 同業を助けることが、自社の事業になる
コンサルティングを始めるために、本を出した
2009年から、同社は他の工芸メーカーへの経営コンサルティングを始めます。始め方が具体的です。
「そしてたどり着いたのが、当社が直接メーカーの経営に関与して、再生事業のコンサルティングを行うことでした。ただ、コンサルをやるにも相手がいなければ始まらない。ならば『コンサルをやる!』宣言をするために本を出そうと考えました」
支援先で最初に見つかる問題も、はっきりしています。
「経営が無いことです。例えば具体的に言うと、予算表のある会社が無い。なぜかというと、もともとは産地問屋がある意味では経営をしていて、各工芸メーカーはその製造部門のような位置づけだったからです」
「まず『決算書を見せてください』というところから始まります。本当にどの会社も予算表が無いので」
行政主導の産地支援との違いも語られています。
「よく、行政が外部のデザイナーやプロデューサーを呼んで地元の工芸を復活させようとしているところがありますけど、その動きは間違っていると思います。問題の本質がわからずに『デザインをしましょう』とか『日本のものづくりは素晴らしい』みたいなことを言っても、何も解決されない」
支援先の選び方には、1つの産地に1社という原則があります。
「産地の中でどこか1社を徹底的に磨いて、それが圧倒的な成功事例になれば、2番手や3番手は見よう見まねでついてくるはず。だから、一つの産地で1社だけにコンサルすることにこだわっています」
コンサルティング事業そのものの採算は、本人が正直に語っています。
「コンサル事業自体は、正直なところペイできていません。基本的には年商1億円以下の赤字メーカーばかりが相手ですから、高額なコンサル費はいただいていません。ただ、その方たちが生き残って活躍してくれないと、中川政七商店の30年後のものづくりは無い。だから、製造力を確保するためにコンサルによる事業再生は必要です。そして、彼らのブランドの流通は当社の直営店でサポートすることになるので、それで長い出世払いにはなるわけです」
「コンサルをやるのは世の中のためだけではなくて、当社の生きる道でもあるんですよ。(中略)中川政七商店が利益を出すことと『日本の工芸を元気にする!』は、ほぼイコールです」
支援した企業は2026年6月時点で60社以上、教育講座や流通支援まで含めると700社を超えます。同社は「10年で産地の一番星を20社つくる」という目標を掲げています。
自社の展示会に、支援先を相乗りさせた
2011年には合同展示会「大日本市」を始めました。立ち上げ時は4ブランドでしたが、2026年9月開催の第17回では159ブランドが出展し、過去最多となっています。この展示会を始めたときの社内の反応も、本人が明かしています。
「例えばうちで言うと、『日本の工芸を元気にする』と言ってマルヒロさんのコンサルティングをやりました。でもマルヒロさんは小さな会社で、営業さんもいない中でどうやって売上を上げていくのか。新ブランドはつくったものの、販路がないわけですよね。販路開拓をどうしようかと思った時に、僕は『中川政七商店の展示会に相乗りさせる』と言い出すんですけど、みんなからめっちゃ反対されるわけです。来るお客さんの量は決まっている。みんなのお財布は決まっている。そこにマルヒロを入れたら、うちの売上が下がります。それは経済合理だと思うんですけど、『そっか、そうだよな』と思って折れちゃったら、たぶんそれでおしまいです」
「もっと言うと、1社でのベストを考えること自体が、もはや部分最適だと思っていて。パートナー企業として関わっている人たち全体を僕は見ているつもりなので、向こうの経営者が何と言おうが、『全体で見てこれがいいんだったらこうだよね』と言うんですよね」
この設計は、2015年度のポーター賞受賞につながっています(一橋大学大学院が運営する賞で、独自の戦略で高い収益性を上げた企業を表彰するものです)。受賞時の同社は売上高42億8000万円、売上高営業利益率8.5%で、織物・衣服・身の回り品小売業の平均4.6%、同卸売業の平均3.3%を上回っていました。
ローカルグローススタジオの分析:同業を、競合ではなくパートナーに変えている
地方企業やスタートアップに共通する、低リソース・ブランド無しの戦わない戦略で、私たちは「一見すると競合に見える企業であっても、バリューチェーンの異なる部分に強みを持っていることが多い」と書き、競合をパートナーに変える発想を紹介しました。大日本市を読み解くと、同じ記事で挙げた共同イベントによる相互送客と同じ考えで運営されていることが分かります。
中川政七商店の場合、支援先は工芸品を作って売る同業者です。展示会に相乗りさせれば、同じ来場者の予算を分け合うことになります。社内が反対したのは、経済合理として正しい反応でした。それでも押し通した理由が「1社でのベストを考えること自体が、もはや部分最適」という一文です。
そして、この選択は長期では自社に返ってきています。支援先が生き残らなければ30年後に作れる工芸品がなくなる、という本人の説明のとおり、産地支援は製造力の確保でもあります。同記事で書いた「Win-Win-Winの関係構築」が、自社・パートナー・顧客の3者ではなく、自社・産地・将来の製造能力という形で成立しています。
なお2026年6月、同社は工芸メーカーへの成長投資という新事業を始め、第1弾として1793年創業の漆塗師屋・漆琳堂(福井県鯖江市)と資本業務提携しました(出資比率10%未満)。ポーター賞のレポートには、同社が守ってきたトレードオフの1つとして「コンサル先への出資をしない」と明記されていました。先代が引いた線を、次の代が意図的に引き直したことになります。千石社長は「『売る力』だけでなく『つくる力』をどう未来へ残していくかが問われています」と説明しています。
この事例から考えられること
1. 支援先の選定に、1産地1社という原則がある
中途半端に広げず、成功事例を1つ作れば周りが追随する、という考え方です。対象を絞る原則が先に決まっていた例と読めます。
2. 自社の展示会に、支援先を相乗りさせている
大日本市は、自社が持っていた集客の場に他社を乗せるところから始まりました。短期の売上は分け合うことになりますが、関係と評判が残る構造です。
3. 支援の採算が、本業への還流で成り立っている
コンサルティング費を高く取らない代わりに、支援先のブランドを自社の直営店で扱う。この設計だからこそ続いている、という読み方ができます。
4. 創業地・奈良へ、鹿猿狐ビルヂングとN.PARK PROJECT
2016年、創業300周年を機に、中川氏は工芸業界の生き残り策として「産業観光」と「産業革命(産地の垂直統合)」の2つを掲げます。公式読みものでの発言です。
「新しい伝え方と作り方。その両方がないと、日本の工芸は生き残っていけないんじゃないかと思います。中川政七商店がこの一大ムーブメントを起こしていくべき場所はまず、本拠地である奈良です」
このうち「産業観光」を創業地で形にしたのが、2021年4月14日に開業した複合施設「鹿猿狐ビルヂング」です。奈良市元林院町、近鉄奈良駅から徒歩7分。設計は内藤廣建築設計事務所、敷地面積126.98坪、延べ床面積241.16坪の地上3階建てです。入っているのは中川政七商店の奈良本店、猿田彦珈琲、すき焼き店の㐂つね(きつね)、そして共同利用オフィスのJIRINの4つ。施設名は、中川政七商店の鹿、猿田彦珈琲の猿、㐂つねの狐という3匹に由来します。奈良本店では約3,000点の商品と800を超えるつくり手を扱っています。
3階のJIRINは、同社にとって初のコワーキングスペースであり、2020年に始めた「N.PARK PROJECT」の拠点です。このプロジェクトのビジョンは「スモールビジネスで奈良を元気にする!」で、目標は数字で設計されています。奈良県のGDP3兆6000億円に対し、10年で10%(3600億円)を県全体で上げ、そのうち1割の300億円に同社が責任を持つ。年商1億円のスモールビジネスの担い手を10年で200人つくる。半年6回の「経営とブランディング講座」からは、堀内果実園(五條市)、菩薩咖喱(奈良市)などが生まれています。
自社の商売だけを考えるなら、創業地に複合施設を建てる必要はありません。工芸の産地を残すというビジョンから逆算すると、産地を訪れてもらう場と、地域に事業者を増やす仕組みが必要になる、という順番です。
5. 創業家以外への承継、トップダウンからチームワークへ
入社した時から、14代は中川家以外と決めていた
2018年3月、中川淳氏は会長に退き、千石あや氏が14代目の社長に就任しました。創業300年で初めて、中川家以外へ経営が渡ったことになります。
この承継は、就任時から構想されていました。
「入社した時から14代は中川ではない人間になってもらいたいと思っていました。当時はまだ『中川商店』という感じで、家の用事が業務に紛れ込んでいるようなこともありました。それは嫌だったし、何より中小企業は借金があると、社長が個人保証をしない限り銀行はお金を貸してくれません。それでは同族で代を継承していくしかない」
「中川家以外の人に引き継げる状態というのは、つまりは個人保証のいらない経営状態になるということ。財務的によくするという意味も含めて、『ちゃんとした会社にしたい』と思っていました」
創業家以外に渡すために、まず財務を作りました。この順序が語られています。
後継者に求めた条件は2つです。
「次期社長に必要だと考えていたのは、人望とバランス感覚です。社長に限らず人の上に立つ人は人望がなきゃいけない。自分の経験の中でも、それは痛いほどよくわかります。ここ数年で会社も直営店数が50店を超え、社員もどんどん増えてきました。バランス感覚というのはそういう、会社の規模がある程度大きくなってきた時に、とても重要な力です」
交代の時期についても、基準が語られています。
「人間も年を重ねれば体力的、精神的限界が出てきます。だからピークの時に交代しなきゃいけないと思っていました。経営者としてベストの状態で引き継げるように」
そして、交代そのものの目的が語られています。
「いい企業文化を育むには、トップダウンじゃなく、一人一人が戦闘能力を上げる必要がある。それには俺が自分から離れんとダメやねん」
引き受ける側は、4か月悩んでいる
千石あや氏は1976年、香川県生まれ。大阪芸術大学を卒業後、1999年に大日本印刷へ入社し、デザイナーとして働いたのち、2011年に中川政七商店へ転職しました。小売課、生産管理部門、経営コンサル案件のアシスタント、13代初の秘書、ブランドマネジメント室長を経て、入社から約7年で社長に就任しています。
打診を受けたときの反応も、本人が語っています。
「最初は大爆笑でした。ないないない、なんの冗談ですかって」
「全く、1ミリも(ありません)。社長を打診されて、『それは絶対違うと思う』と正直に伝えました。どうしてかと言うと、中川はやはりトップダウンの経営者で、それに対するリスペクトが私にあったし、私は中川とは違う種類の人間で、あなたのようなことは到底できませんと話して断ったのですが、『自分のコピーは要らない』と言われて……」
「でも、もし私がこれで後任を断ったら、そのことを抱えたまま会社に残ることはきっとできない。継ぐか、辞めるか。私にはその二択しかないんだとわかった時に、それなら、ずっと一緒に仕事をしてきた13代の決断を信じて、できるかどうかわからないけれど頑張ってみよう、と思ったんです」
就任スピーチで千石氏が示した交代の意味づけは、次のとおりです。
「中川政七からの完全なる卒業です。13代は、家業に戻ってきてから雑貨部門をブランディングして事業規模を13倍、成長率は15%をキープした素晴らしい社長です。もしこのまま誰かについて行くなら、この会社で中川政七以外にふさわしい人はいない。私でもないと思います。それでも、誰かについていく体制では会社の発展に限界がある。だから、一人で背負うよりも全員が成長し続けることに舵を切った。今回の13代の決断を、私はそう受け止めています。つまり、この社長交代は、トップダウンからチームワークへの変化です」
「チームワークって、一緒に助け合っていこうという弱いものの集まりではないです。強いプロが集まった集合体です。チームで最強にならなければ、変わった意味がないと思っています」
「今回の社長交代は、中川政七から私にではなく、中川政七からみんなになったことが、一番大きいんです」
千石氏自身は、指名の理由をこう受け止めています。
「いわゆるその当時の中川政七商店はトップダウンの会社だったと思うんですね。割と細部まで中川が指示をしたりとかっていうようなことが多かったので、本人自体が、この状態でずっと成長し続けるって1人の人間の許容範囲としてはいつか限界が来るだろうということが彼の課題としてあって、なるべく早くそのトップダウンからチームワークへ、という風に言ってたんですけど、そういう組織全体をそういう風に変えていく必要があるだろうっていうことで、その社長交代もそのための1つの手段だっていう風に考えてましたね」
打診されたときの実感のなさも、繰り返し語られています。
「もう最初本当に冗談だと思ったぐらいで、ないないですないですって言ってお断りをしたんですけど、それぐらい実感もなかったです」
「会社が変わらなきゃっていうことに対しての納得感っていうのは私もあったんですけど、それが自分ができるかどうかっていうと別問題なので。そこの覚悟が決まるまではちょっと時間がかかりました」
会社が変わらなければならないことには納得していたものの、それを自分がやれるかどうかは別だった、という語り方です。2つを分けて語っている点に、この時期の距離感が出ています。
「十四代 中川政七」にはならない
ここで、この会社の襲名の考え方が整理されています。中川淳氏の説明です。
「14代社長は分かるんですけども、14代中川政七っていうのは、一応分けて、何代というのは会社のトップが代を重ねる。で、政七は家なんで、これはファミリーで。その人がたまたま次やるとして、トップになった時に襲名するなら、それは襲名だとは思うんですけど、一族じゃない人が代をやる時は、何代だけでいい」
「政七って男性ネームでもあるんで、14代政七をやれとは思わないです」
「14代目社長」と「十四代 中川政七」は別のものだという整理です。代を数えるのは会社のトップの連なり、名前は家のもの。だから創業家以外が社長になっても、名前は動かない。この線引きがあるため、2025年に中川氏が名前を返上するという判断も成り立ちます。
就任後の苦労も率直です。
「社長就任当初はものすごく混乱しました。やはり、中川のやり方に慣れていましたから。どうしても指示待ちになってしまう」
「就任直後はやっぱり、私が決めなきゃ、みんなをリードしなきゃと変に力んでいたんですが、それでは13代の劣化版にしかならない、と気づきました」
「私たちは『日本の工芸を元気にする!』というビジョンの下に集まっているので、社長に仕えるのではなく、やはりビジョンに仕えることが重要」
社長交代の後、中川氏は既存事業から手を引いています。
「はい、既存の商売は千石に任して、僕は別働隊で奈良の街づくりに注力します。今は取締役会の時以外は、中川政七商店のSPA事業の方は見ないようにしているんです。僕が代表になった後、父親からは一切口出しされなかったので、よくある事業継承にまつわる親子喧嘩もなかった。それと同じ状況です」
ローカルグローススタジオの分析:ビジョンを掲げたことで、人が集まるようになっている
マネジメントとは、今のリソースでやりくりすること、リソース調達力を上げることで、私たちはリソース調達力を高める方法の1つとして「ビジョンの力を活用する」ことを挙げました。地方企業やブランド力の弱い企業は、報酬だけで優秀な人材を引きつけることが難しいため、意義に共感する人を集める設計が要る、という趣旨です。
中川政七商店を読み解くと、同じことが本人の口から語られています。
「その時によく言っているのは『採用に表れます』ということです。うちもそうだし、工芸企業さんのコンサルをやっていてもそうなんですけど、突然レベルの違う人たちが現れるということが起こりますね」
「(ビジョンを策定した)2007年から15年経っていますけど、コロナでいろいろとあったものの、業績は今のほうがいいですよ。だからビジョンを優先して短期のPLを優先しなかった結果、PLも良くなったという話というのが1つ」
同記事はもう1つ、既存メンバーの力を引き出すことがマネジメントの本質だとも書きました。千石氏の「個人の戦闘能力を高めることこそが、チームワークを高めること」という定義は、その考え方と一致します。
「『チームワーク』はすごく難しい言葉です。戦闘能力の低い人たちが補い合って、強い力を出すということではなく、『個人の戦闘能力を高めること』こそが、チームワークを高めることだと思っています。中川一人で考えるより、十数人で考えるんだから当然良くなるよね、という状況にしないと社長を交代する意味がありません」
社長交代の目的が「人を替えること」ではなく「意思決定の総量を増やすこと」に置かれています。
この事例から考えられること
1. 創業家以外に渡す準備が、財務から始まっている
中川氏が最初に手を付けたのは財務でした。社長の個人保証が必要な状態では、同族以外へは渡しにくくなります。承継の選択肢の広さが、財務の状態に左右されるという読み方ができます。
2. 後継者の条件が、2つに絞られている
「人望」と「バランス感覚」の2つです。項目が多いほど選びにくくなるという考え方が背景にありそうです。
3. 交代の時期が、業績のピークに置かれている
「ピークの時に交代しなきゃいけない」という判断です。悪くなってからの交代であれば、後継者は立て直しから始めることになります。
4. 渡した後に口を出さない設計が、セットになっている
「自分のコピーは要らない」という言葉と、交代後にSPA事業を見ないという実行が対になっています。渡した後の距離の取り方まで含めて設計されていた例です。
6. 2025年、名前も返上して会社を離れる
2025年2月28日、中川淳氏は23年間務めた中川政七商店の代表取締役会長を退任しました。同時に、2016年の創業300周年で襲名した「十三代 中川政七」の名も返上しています。公式ニュースの記述です。
「この度、2025年2月28日付をもちまして、十三代 中川政七は、株式会社中川政七商店 代表取締役会長ならびに株式会社NKG倉庫 代表取締役社長を退任いたしました。上記にともない2016年に襲名いたしました『十三代 中川政七』を返上いたします」
退任の理由は、本人がForbes JAPANに寄稿しています。
「2025年2月28日、私は23年間務めた中川政七商店の代表取締役会長を退任しました。まだ50歳なので経営者としては若輩ですし、皆さんから『まだ早いのでは』『なぜ?』と言われたのも確かです。しかし、この決断はもちろん突然ではなく、かなり以前から準備してきたこと。自分が退任することで会社のビジョン達成に近づけると考えたからです」
「もちろん今のことだけを考えるのなら、私もいた方が経営のパフォーマンスは出せるのかもしれません。しかし、現在の社長をはじめとする経営陣は、必ず今の私を超えてくる。そう思っているので、未来の彼らの可能性には敵わないと考えています」
「何より大切なのは、いつまでも現状にしがみついているのではなく、若い世代に打席を譲っていくことであり、それが今後社会的責任を果たす上でも重要だと考えています」
テレビの対談では、もう少し率直な言い方もしています。
「僕最初中川に戻った時、20数年前にサラリーマンやめて中川に戻った時から、次の代は中川じゃない人間にっていうのは言ってきて。で、千石に譲って、会長職という形で本業とは違うコンサルだけをやってましたけど、もう十分やれるなっていうことと、あと、だんだんだんだんと、知らず知らず老害になることもあり得るじゃないですか」
「ちょうど50っていう節目でもあったし、なんか僕がいない方が、もっと気楽にみんな頑張ってやれることもあるだろうなと思って」
名前を返した理由も、同じ場で語られています。
「会社は離れる以上、その名前を持って仕事し続けるのはややこしくなるんで、返そうと思って」
千石氏の側から見た退任の受け止めも記録されています。
「ずっとその工芸以外のものもいつかっていう話も少しは聞いておりましたので、このタイミングで会長職をやめて13代がそっちに専念するっていうのはいいことだなっていう風に思いました」
「50歳を節目に次のことをやるみたいなことを応援できるというか、それもナチュラルに送り出せる企業であるというのもいいなと思って」
送別会の様子も語られています。
「2018年に(社長が)変わった時に、それからは自分たちでやっていくんだっていうのを会社全体でも本当に覚悟を決めたというのもありますし、なので本当に送別会をしたんですけど、すごく盛り上がって、かつ温かく、笑い話、笑いあり涙ありで、すごく清々しく送り出せて良かったなっていう風に思ってます」
そして中川氏は、退任後に店舗を回っています。
「一応店舗にお礼参りに行こうと思って。今70店舗近いんでなかなか大変なんで、まだコンプリートはできてないんですけど、1店舗1店舗行ってお菓子持って、今までありがとうっていうのを言って回ってます」
「僕そんなにしょっちゅうお店に行って細かいこと言うとか、そういうマネージメントではなかったんで、そんなに普段も、もう社長退いてからは付き合いがなかったし、採用も社長を退いてからやってないんで顔知らない子もいるんですけど、でもやっぱり中川政七商店が成り立ってるのはやっぱりお店ありきなんで。現場の本当に販売スタッフの対応1つで全てが決まってくるところがあるんで、その感謝をちょっと改めて伝えようと思って」
「個別善」という基準
会社を離れた後、中川氏は工芸以外の業種でコンサルティングを始めています。建築や工務店、古材を扱う会社などです。その仕事の中身も説明されています。
「今は割とどちらかというと会社としてはうまくいって、かつ規模も大きいところ。社長さんも心配はあるけど、中で働いてる人も頑張ってるし、売上も利益もいいし、お給料もそれなりにもらってるんだけど、なんかやりがいをいまいち感じれてないみたいなことって結構あるんですよね。だから、その社長の心の内をきちっと言葉にして、それと現場の人が日々向き合ってる仕事がちゃんと繋がってるような状況を作るっていう仕事」
「なんかやってると整体師みたいな気分になってきて。なんか筋肉もそこそこついてるし、体もしっかりしてるんだけど、なんか背筋がこう歪んでるからうまいこと動かないのを、大体社長とワンオンワンで3回ぐらいで終わるんですけど、ポキポキって直すと背筋が通って、すごい体が動きやすくなるみたいな感じで、現場の人もそこに向けて頑張ってる感じがするみたいな感じで、すごく生き生きした形になっていく」
そのときに使っている「いい会社」の基準が、3つに整理されています。
「もちろん資本主義社会で、会社が継続していくためには利益は出さなきゃいけない。これ第1要件だと思いますし、最近だと環境問題とか例えば人権の配慮とか、こういういわゆる社会共通で、これが正しいよね、みたいなことはちゃんと果たさなきゃいけない。でもこれが多分今の世の中の認識だと思うんですけど、プラスもう1個、その会社が創業された時、あるいは作られた時に、こういう世界を目指そうと思ったものがなんか別にあったと思うんですよね。それは僕は個別善という言い方をして」
「個別善に愚直に取り組むっていうことがいい会社の条件なんじゃないかなと。もちろん環境問題とか大切だし、それはそれで絶対果たさなきゃいけないけど、プラスその会社が目指してた何かがあるはず。中川政七商店で言うと日本の工芸を元気にする。それをやっぱり愚直にやり続ける。この3つの条件が揃って初めていい会社って言えるんじゃないかな」
「個別善」という言葉は、当時の社外取締役だった山口氏との議論から出てきた造語だと説明されています。社会共通の善(環境や人権)に対して、その会社が固有に掲げる善という意味です。
そして、企業が続くことそのものへの違和感も語られています。
「経営者をやってると、ゴーイングコンサーン、要は続けていくことが経営者として第一だって言われるんですけど、僕はそこにすごい違和感があって。続けるだけだと利益追求じゃないですか。それじゃないはずで、何か成し遂げたいから起業されたわけで、そこに向かって、まだそれが大きな目標だから年数がかかるから利益は上げ続けなきゃ始まらないけど、いつの間にかその手段が逆転してしまってるんじゃないかなっていうのが、最近思うところですね」
同じ寄稿には、「ビジョン51対、利益49」を実際の意思決定に適用した例として、次の一文もあります。
「他にも上場目前のギリギリのタイミングで、上場することでビジョン達成が遠のくと判断し、取り止める決断をしたこともありました」
退任後の会社について、千石社長はこう語っています。
「私たちのビジョンがブレずにいれば、変わらないし、私たちの判断は中川と一致していると思っている。中川の最も大きな功績はビジョンを策定し、それを浸透させたこと。(中略)彼が『会社の利益ではなく、工芸の利益を優先する』と明言してきたことはすごいことで、それを今も貫き『自社のためだけじゃない』とオーナー自らが言い切るのは、なかなかできることではない」
会社はその後も伸びています。2026年2月期の売上高は103億2000万円で初の100億円超、4期連続の過去最高。全国67店舗、会員数は2026年3月に100万人を超えました。2025年には国際認証のB Corpを取得し、2030年までに初の海外旗艦店を開く計画も発表しています。
2018年に経営を渡し、2025年に会長職と名前を渡す。7年かけて、実と名の両方を手放したのがこの承継です。
渡された側が、次に何をしているか
千石社長が就任後に取り組んだのは、「らしさ」を言葉と映像にする作業でした。
「物づくりというか、中を見てみると、少し工芸感というか、手仕事感みたいなことが薄れてきているかなという風に思ったっていうのが当時の課題でして。我々はその日本の工芸を元気にするっていうビジョンが、売上よりも上位概念であるっていう風に置いてる会社なので、産地とか工芸が元気になるためには、もう少し工芸に根ざしたもの作りっていうことにシフトしていくっていうことが必要じゃないかなと思いました」
「中川政七商店としてブランドを強固にしていくために、どういうものが私たちらしいのか、みたいなことを言語化していったりとか、あとは映像だったりビジュアルだったりでみんなの共通認識を測っていったりとか」
ただし、その「らしさ」は固定されていません。
「最近思うのが、やっぱり、らしさもずっと更新し続けないといけなくって。ずっと守ってるだけじゃなくって、今の私たちのらしさって何だろうっていうのをずっと考え続けてるという感じかもしれない」
「今のらしさと5年後のらしさも違いますし、半年前のらしさと違うこともあるので。でも、なぜこれを私たちはらしいと考えるかっていうのをシェアしていくっていう感じが近いかなって思います」
社内から上がる声で修正することもあると語られています。
「こういうのをやるべきじゃないですかっていう、現場の声として上がる場合もありますし、そういう声があるとなるほどなと思って私がチューニングする場合もあります」
2021年には、ブランドコンセプト「100年先の日本に工芸がありますように。日本の工芸が教えてくれる暮らし方、生き方」を発表しました。この必要性も説明されています。
「ビジョンっていうのをすごく大事に我々が成長してきて、それはずっと軸にあるんですけれども、実は世の中のお客様だったりとか、そういう方たちに向けて語りかける、工芸がある世界がどういう風にいいのかとか、どんな豊かさがあるのかみたいなことが、実はあまり言語化できてないなということが当時課題としてあって」
具体的な商品にも落ちています。梅酒や味噌づくりを、道具と材料をまとめて届ける「旬の手仕事」という商品です。
「梅酒をつける時に、梅買って瓶買ってお塩買って、道具全般を揃えるみたいなことが結構ハードルだな、っていうのが個人的にあって。これがもう少しセットアップされてたら、踏み出せるかもしれないなっていう風に思ったんですね」
「梅自体も奈良の農家さんと我々で協業してお届けして、その梅を作る瓶は私たちのプロダクトとしてお届けして、お塩とかそういうものがセットになって、その旬の季節に届きますよっていう商品を開発したんです」
そして2つの新しい方向が動いています。1つは海外です。
「工芸の衰退って日本だけじゃなくて世界規模で同じように起きていて、どんどんその手仕事的なものって失われていってるんですけれども、選択肢として残ることが絶対に豊かだろうなとは思うので。海外でも、その土地の工芸だったりっていうのを紹介していけるようなお店ができたらな」
現在は中国、韓国、台湾、イギリスで長期のポップアップを展開し、実店舗を目指してテストを重ねている段階だと説明されています。
もう1つが住宅です。
「工芸の範囲の中で、建材として使われているものだったり、あと欄間だったりとかっていう、古くから日本家屋の中で使われてきたものが工芸としてあるものたくさんあるんですけど、日本家屋自体がどんどん減っていて、畳のお部屋がない住宅っていう方が増えているので」
「そういうものを残そうとすると、どうしてもそれが取り入れられた雑貨という形で我々今まで残そうとしてきたんですが、本来は建材として使われるっていう状態が1番良くてですね。使われる量としても全然違いますので」
畳や襖をそのまま売るのではなく、和紙で作る壁紙や、い草を加工した現代の住宅に取り入れやすい形を開発しているとのことです。
千石氏が掲げる次の目標は、「世界の工芸も元気にする」でした。13代目が掲げた「日本の工芸を元気にする」の範囲を、地理の方向へ広げたことになります。
7. ローカルグローススタジオの視点
冒頭に挙げた7つの観点を、本文で確認した事実で説明し直します。
1. ビジョンを先に決めたことで、その後の経営判断が速くなっている
赤字部門を黒字にした後に「では何のために働くのか」で止まり、2、3年かけてビジョンを決めています。以後の事業、商品、営業、組織は、すべてそこから逆算されました。「どれもビジョンを達成するための手段。だから経営判断はラクですよ」という言葉が、順番を固定したことの効用です。判断基準は「ビジョン51対、利益49」という比率と、人事考課の項目にまで落とされています。
2. 同業を助けることが、自社の事業になる設計になっている
支援先の工芸メーカーは、見方によっては競合です。それでも自社の展示会に相乗りさせ、直営店で流通を支えました。理由は「1社でのベストを考えること自体が、もはや部分最適」であり、支援先が生き残らなければ30年後に作れる商品がなくなるからです。産地支援は善意ではなく、製造力の確保でもあります。
3. 承継が、名前も含めて手放し切る形で完了している
2018年に創業家以外へ社長を渡し、渡した後はSPA事業を見ない。2025年には会長職と襲名した名前を返上して会社を離れる。「自分が退任することで会社のビジョン達成に近づける」という判断であり、同時に「だんだんと、知らず知らず老害になることもあり得る」という自己認識でもありました。名前を返した理由は「会社は離れる以上、その名前を持って仕事し続けるのはややこしくなるんで」という、実務的なものです。
4. 創業家以外に渡す準備が、財務から始まっている
社長の個人保証が必要な状態では、同族以外に会社を渡せません。中川氏が「ちゃんとした会社にしたい」と言って進めたのは、まず個人保証のいらない財務にすることでした。この会社では、承継先の選択肢を広げる作業が、後継者探しではなく財務の健全化から始まっています。
5. 先代が引いた線を、次の代が引き直している
2015年のポーター賞レポートに書かれた同社のトレードオフの1つは「コンサル先への出資をしない」でした。2026年、同社は工芸メーカーへの成長投資を新事業として始めています。守るべきはビジョンであって、そのための手段は代替わりのたびに更新されます。
6. 「代」と「名前」が、分けて扱われている
中川氏は「何代というのは会社のトップが代を重ねる。政七は家なんで、これはファミリー」と整理しています。だから千石氏は「14代目社長」であって「十四代 中川政七」ではありません。会社のトップの連なりと、家の名前を別のものとして扱う。この線引きがあるため、創業家以外へ渡すことも、渡した側が名前を返すことも成立します。屋号や当主名を持つ会社にとって、この分離を先に決めておくかどうかは、検討する余地がありそうです。
7. 会社を続けること自体が目的になっていないかを、問い直している
「続けるだけだと利益追求じゃないですか。何か成し遂げたいから起業されたわけで、いつの間にかその手段が逆転してしまってるんじゃないか」。中川氏は、企業が続くこと(ゴーイングコンサーン)を第一とする考え方に違和感を示しています。そして「いい会社」の条件を、利益、社会共通善、そして創業時に目指した世界である「個別善」の3つに整理しました。自社の個別善が何かを言えるかどうかが、この点検になります。
本事例から見える経営とマーケティングの学び
中川政七商店の物語は、300年続いた老舗が「卸依存」「産地の縮小」「同族での承継しか選べない財務」という3つの宿題を、13代目への代替わりを起点に順番に解いていった事例として読めます。重要なのは、中川氏が黒字化という短期の成果を出した後で立ち止まり、ビジョンを決めるまでに2、3年かけたことです。その順番があったため、SPA化も、採算の合わないコンサルティングも、創業地への投資も、同じ1本の線でつながりました。
そして最後に手放したのは、会社の経営だけではなく、300年の家名でした。ブランドやリソースが薄い状態から成長を作る経営者にとって、中川政七商店の歩みは「何を残し、何を渡すか」を考えるための学びになります。
「ビジネス知の機会格差をなくす」という私たちのミッションに向けて、これからも実践的で価値ある情報を発信していきます。この記事の内容について、さらに詳しく知りたい方は、ぜひご連絡ください。

執筆者 : 佐久間 一己 (さくま かずき)
つなぐスタジオ株式会社 代表取締役社長 / ローカルグローススタジオ Director
リクルート営業マネージャーを経て、福井県小浜市で道の駅・古民家ホテルの集客支援と行政の産業6次化に4年携わり、その後ユーザベースFORCAS(現Speeda)カスタマーサクセスマネージャー、スタートアップ執行役員、フィンテック事業責任者を務め、2025年に地方企業向けのマーケティング代理店を設立。BtoB事業でWEBメディアを立ち上げオーガニック流入を3か月で20倍に伸ばすなど、知名度や予算が限られる時期に効くマーケティングと採用の手法を、地方企業の規模に合わせて伴走します。


