先進企業に学ぶ(アトツギ編) – 浅野撚糸株式会社|下請け撚糸から自社ブランドへ、2度の倒産危機を越えて福島・双葉町へ

ローカルグローススタジオは、『地方企業にスタートアップのような成長を』というテーマで、コンテンツ発信と支援サービスを展開しています。この記事では、実践的なビジネスノウハウを、できるだけわかりやすくお伝えしていきます。

今回取り上げるのは、岐阜県安八郡安八町に本社を置く株式会社浅野撚糸です。1967年創業・1969年12月設立で、二代目社長の浅野雅己氏(1960年生まれ、1995年社長就任)が率いる撚糸専業メーカーです。独自開発した撚糸「SUPER ZERO」を使った高機能タオル「エアーかおる」を看板商品にしています。撚糸とは、糸を撚り合わせて新しい糸を作る工程のことで、織布や縫製の前工程にあたります。もともとは、その工程だけを請け負う下請けの会社でした。

1990年代後半の価格競争と中国製糸の流入で、浅野撚糸の売上は7億円から2億円まで落ち込みます。その逆風の中で自社ブランドの開発と直販への転換に踏み出し、2023年4月には総事業費約30億円規模の福島県双葉町・新拠点「フタバスーパーゼロミル」を稼働させました。エアーかおるの累計販売は1,900万枚規模に達しています。

家業を継ぐ経営者は、引き継ぐ会社を選べません。与えられた会社の中の何を変え、何を守るかの見極めがすべてになります。浅野撚糸の場合、守ると決めたのは協力工場と社員、そして双葉町で働く人たちでした。家業を継いだ方、これから継ぐ方に向けた事例として読み解きます。

この記事の要約

先にストーリーの全体像です。浅野雅己氏は福島大学教育学部を卒業後、福島県内の小中学校で体育教師を務めていました。母の病をきっかけに27歳で教職を辞し、1987年に浅野撚糸へ入社、1995年に35歳で二代目社長に就任します。1994年に地元の村田機械が開発した複合撚糸の技術を導入して業績は伸び、1999年には過去最高の売上を記録しました。ところが2000年代に入ると仕事が中国へ移り、年商は7億円から2億円へ激減します。自社に借金はなかったものの、雅己氏が説得して機械を導入した10軒の協力工場に借金が残りました。この人たちを見捨てないために廃業せず、「どうせ廃業するなら限界まで挑戦したい」として開発したのが、お湯に溶ける糸を使った特殊撚糸「SUPER ZERO」です。大垣共立銀行のビジネスマッチングで出会った三重県津市のおぼろタオルに試作を依頼したところ、狙っていた伸縮性は出ませんでしたが、代わりに、かつてない厚みと柔らかさを持つタオルが生まれます。これが2007年6月発売の「エアーかおる」でした。問屋や小売店に頼らず自社で売ると決め、通販、ふるさと納税、直営店を軸に販路を作ります。2023年には福島県双葉町に工場と体験施設を開きますが、その後コロナ禍と帰還者数の見込み違いが重なり、借金は最大26億円まで膨らみました。2度目の危機を越えて、2025年には双葉事業所からの初輸出を果たしています。

このストーリーから持ち帰れる観点は、次の8つです。それぞれ本文の章で事実を確認し、最後の6章で説明し直します。

1. 守る対象を決めたことで、撤退ではなく挑戦を選んでいる(2章)

2. 開発の失敗が、別の価値を持つ製品になっている(3章)

3. 地域にすでにある仕組みを、そのまま販路にしている(4章)

4. 大義は正しく、それでも数字の見込み違いが効いている(5章)

5. 危機が、2度にわたって訪れている(全体)

6. 切った痛みを、なかったことにしていない(全体)

7. 失敗品を捨てなかったことが、主力商品につながっている(全体)

8. 承継で渡すものを、会社の形ではなく目的で決めている(全体)

各章の末尾に、ローカルグローススタジオの分析と「この事例から考えられること」をまとめています。

参考資料一覧

数字で見る浅野撚糸

時点数字出典
1967年浅野博氏が岐阜県安八郡安八町で創業(1969年12月設立)公式サイト 沿革
1983年浅野博氏が岐阜県西部撚糸工業組合理事長に就任。1984年から県下にグループ工場ネットワークを構築公式サイト 沿革
1987年浅野雅己氏が入社(27歳で教職を辞して帰郷)日本政策金融公庫
1995年浅野雅己氏が35歳で二代目社長に就任公式サイト 会社概要
1999年浅野撚糸が過去最高の売上を計上。ゴムと綿糸を撚り合わせたストレッチ糸を開発本人談(Re:touch)、公式沿革
2000年代年商が7億円から2億円へ激減。協力工場10軒に機械の借金が残る本人談(ダイヤモンド・オンライン)
2002年頃SUPER ZEROの開発に着手。製品化まで約5年公式サイト SUPER ZERO
2007年6月「エアーかおる」発売(おぼろタオルとの共同開発)公式サイト 沿革
2018年8月エアーかおる累計販売 約600万枚カンブリア宮殿
2020年8月流通累計1,000万枚を突破。年間販売本数は約120万本公式サイト、東海テレビ
2022年12月累計販売1,500万枚を突破公式サイト
2023年4月22日双葉事業所グランドオープン(敷地約28,000平方メートル、建屋約6,000平方メートル、総事業費約30億円規模、SUPER ZEROを年約500トン生産)双葉町公式、METI Journal
2024年10月期売上高約19億円。翌期は28億円超を目指す事業計画THE SEN-I-NEWS
2025年3月累計1,900万枚規模。双葉事業所からベトナム、ポルトガル、韓国へ初輸出カンブリア宮殿、公式お知らせ

1. 福島で体育教師をしていた男が、岐阜の家業を継ぐまで

父が作った、撚糸の工場ネットワーク

浅野撚糸は、浅野雅己氏の父・浅野博氏が1967年に岐阜県安八郡安八町で創業した撚糸専業メーカーです。岐阜県西部は古くから繊維と撚糸の集積地で、1983年には博氏が岐阜県西部撚糸工業組合の理事長に就任、1984年からは岐阜県下にグループ工場のネットワークづくりを進めました。仕事の中心は、織布や縫製の前工程を請け負う下請けでした。

出発点は「家業」ではなく「教員」だった

二代目になる浅野雅己氏のキャリアは、家業から始まっていません。1960年に岐阜県安八町で生まれ、福島大学教育学部を卒業後、福島県内の小・中学校で体育教師になりました。バレーボール部の顧問も務めています。後の双葉町進出を考えるうえで、この福島との縁は前提になります。

家業を継ぐ予定はありませんでしたが、母の病をきっかけに退職して帰郷し、1987年に浅野撚糸へ入社、1995年に35歳で二代目社長に就任しました。

「教員の仕事が嫌だったわけではありません。当時の中学校の先生は泣きながら引き留めてくれました。それでも家族と会社を守りたいと思い、2つ目の夢だった社長の道を選ぶことを決めました」

社長になりたいという夢の出どころは、高校1年のときの記憶です。1976年の9.12豪雨で長良川の堤防が決壊し、自宅の1階がほぼ水没しました。

「怖い父だったんですが、とても尊敬していました。会社の経営が苦しい時に、父が仏壇の前で1週間座り込んでいた姿も見ました。1976年(昭和51年)の9.12豪雨の時、長良川の堤防が決壊して、自宅の1階がほぼ水没しました」

「電話はつながっていましたので、親戚からどんどん電話がかかってきて、父は笑いながら会社は確実に倒産する。だけど、みんな無事や。心配するなと。私は高校1年でしたが、かっこいいなと思いましたね、あの時の父の笑顔が。憧れましたね。だから、社長になりたいなって」

会社が潰れると分かった場面で、父が笑って「みんな無事や」と言った姿が、承継の動機になっています。

社長交代は、新しい機械を巡る直談判から決まった

1987年に入社した後、社長就任は1995年です。この交代には、はっきりした理由がありました。

「社長就任の直前、1994年頃に、業界で新しい画期的な機械が登場したんです。従来の機械はウールとウール、綿と綿など、同じ種類の糸しか寄り合わせられなかったのですが、新機械は綿とゴム、あるいは異素材のフィラメント糸など、全く異なる種類の糸を合わせることができるものでした」

「『この機械を入れなければ、今後、単純な撚糸仕事はすべて海外に奪われて、会社は潰れてしまう』と確信しました。そこで、父に『この機械を導入して勝負したい』と直談判したんです」

父の答えが、社長交代の言葉になります。

「すると父は『ここからの領域は、とても俺のこれまでの知識や技術、経験を超えている。だから、お前が社長になって、その新しい方向に会社を引っ張って進んでみろ』と」

年齢や順番ではなく、これから必要になる技術が自分の理解を超えているという理由で、代を譲っています。承継の理由を、技術の側から説明しています。

そして、この投資は当たりました。

「これが、見事に大当たりしたんです。当時、女性用パンツの腰ゴムなどに使われる『ポリウレタン』の繊維を撚り合わせる需要が爆発的に増えていました。そして、うちのような最新の機械を持っている会社は他になかった。まさに『天下を取ったな』という、幸せの絶頂期がこの1995年頃でした」

ただし、この絶頂は長く続きません。

「1990年代の後半になると、我々が誇っていたその撚糸技術が、恐ろしいスピードで海外に渡ってしまいました。1990年代末には、海外で全く同じことが、はるかに安い賃金でできるようになってしまった」

「1999年には、過去最高売上である7億2,000万円を達成したのですが、そこをピークに、業績も私の心の状態も、まさに真っ逆さまに転落していきました」

自分の判断で入れた機械が会社を伸ばし、その同じ技術が海外に渡って会社を追い詰めました。5年の間の出来事です。

この事例から考えられること

照らし合わせてみる項目

  • 後継者が家業の外で経験した仕事や地域があるか
  • 先代が築いた取引先や協力工場との関係を、後継者が説明できるか
  • 業界団体での役割が、先代の個人的なつながりだけで成り立っていないか
  • 承継の動機を、後継者本人が言葉にしたことがあるか
  • 主要顧客が1業種や1国に集中していないか

事例から読み取れること

1. 後継者が家業の外で得た縁が、後の判断につながっている

福島大学と福島県での教員経験が、後の双葉町進出の土台になりました。家業の外で作った人脈や土地勘が、事業の選択肢を増やしていた例と読めます。

2. 先代が作った関係が、承継の対象になっている

協力工場10軒、業界団体、地域の金融機関。誰とどういう経緯でつながっているかは、株式や設備と違って書面に残りにくい部分です。先代が動けるうちに書き出せるかどうかで、引き継ぎ方が変わりそうです。

3. 承継の動機が、本人の言葉で残っている

「あの時の父の笑顔が」という記憶が、この会社の判断を支えています。なぜ継ぐのかが言葉になっていることが、後の局面で効いていたように読めます。

2. 年商7億円が2億円に。それでも廃業しなかった理由

5年で終わった好況

浅野撚糸には、他社にない技術がありました。

「うちには『複合撚糸』という他社にはない技術がありました……1994年(平成6年)に地元の村田機械さんが開発されました。それを導入して大成功したんですね……ところが、それも長続きしなかった。5年ぐらいですかね」

「これはやっぱり父の勘っていうのか、1999年(平成11年)に浅野撚糸が最高の売上を計上して、もう2000年には下り坂になってしまいました。父が、今回は構造的なもので、不景気とは違うといっていました。会計士の先生も、もう絶対に廃業だと」

不景気ではなく構造の変化だ、という見立てです。実際、仕事は中国へ移りました。

「ところが2000年代に入るとその仕事も中国に奪われ、年商が7億円から2億円に激減。弊社は借金がなかったのですが、10軒の協力工場が導入した機械の借金が残りました。家族同然の協力工場さんを見捨てるわけにはいきません」

自社には借金がなく、廃業しても浅野撚糸自体には借金が残らない状態でした。それでも廃業しなかった理由が、協力工場の借金です。

「1995年から新しい機械を入れて、協力工場も私を信じて機械を買った。その機械が入り始めたのが1998年ぐらいで、その頃から仕事がなくなって借金だけが残った」

「もし(廃業して)協力工場さんを見捨てたら、何人か自殺者が出たと思います」

「自分のためだけに仕事をしていたなら辞めていた」

この時期の心境を、本人はこう語っています。

「自分のためだけに仕事をしていたなら辞めていた」

「人のためなら意外に頑張れるものです。潰れることも怖くない。そういう心境でしたね」

「『浅野撚糸に来たら、夜遅くまで社長室の明かりが付いている。仲間がいるならもう1日頑張ろう』と踏みとどまったという話をのちに聞きました」

ただし、守るために切ったものもあります。

「当時、30人いた社員を3分の1にしました。協力会社さんへの仕事を優先するために決断しました」

「私は人を切ってるから、ある意味これは一生消えない。うちで30年働いてくれた工場長夫婦を、息子さんだけ残して一番最初に切りました。一番切りにくいところをね。その息子さんは、今うちの工場のトップですよ」

「その時の工場長の奥さんには、数年間、口を利いてもらえなかったですね。これも1つの歴史ですよ」

2004年には資金繰りが止まる場面もありました。

「何度もありました。最悪は04年に父の意向でメインの取引先や銀行の根抵当権が外され、融資がストップしたときですね。そのときに助けてくれたのが信用金庫さんです。大垣信用金庫(現・大垣西濃信用金庫)の支店長さんが、『今月きついでしょ?』と追加融資をポンと決めてくださったのは今でも忘れられません」

父と税理士から、廃業を勧められた

廃業は、周囲から具体的に提案されていました。

「1999年から2000年頃にかけて、父親と、長年うちを見てくれている税理士の先生の二人から『雅己、もう真面目に廃業しよう』と言われました」

それを断った理由が、協力工場の設備投資です。

「1995年にうちが新機械を入れて大儲けしているのを見て、下請けの協力工場さん、当時は20社以上ありましたが、そのうち約10社が『うちもその機械を買って、浅野さんの仕事を一緒にやりたい』と言って、1998年、1999年頃に同じ機械を買ってくれていたんです」

「その機械は1台あたり約6,000万円もしました。協力工場の社長さんたちは、みんなもともと実直な農家です。うちの言葉を信じて、莫大な借金をして設備投資をしてくれた。それなのに、機械が入った途端に仕事がなくなり、残ったのは借金だけ」

1台6,000万円の機械を、10社が買っています。その原因は、自社が儲かっている姿を見せたことにあります。

「父に言いました。『うちの会社の貯金を全部投げ打って、協力工場さんの借金返済にあてても全く足りない。ここで私が廃業して逃げたら、彼らを完全に裏切ることになる。裏切るくらいなら、倒産するまで、行くところまでトコトン行きたい』と」

父の返答も記録されています。

「父からは『お前は本当に甘いな。商売というのはそういうものだ』と一蹴されましたが、私は諦めませんでした」

創業者から見れば経営判断として甘いものでしたが、それでも通した場面です。

そして、開発に向かう決断が語られています。

「どうせ廃業するなら限界まで挑戦したい」

ローカルグローススタジオの分析:守る対象を決めると、打ち手の順番が変わる

私たちは間違ってはいけない戦略の順番|ビジョン→事業→商品→営業→組織という記事で、戦略の階層の最初に「何のために事業をやるか」を置くという考え方を書きました。手元の資金や組織の現実から考え始めると、現状維持か撤退しか出てこないためです。

浅野撚糸の2000年代前半を読み解くと、私たちが記事に書いた考え方と同じ考えが最もはっきり表れています。財務だけを見れば、自社に借金がない状態での廃業は合理的な選択でした。会計士も廃業を勧めています。それでも続けたのは、「協力工場10軒とその家族を守る」という守る対象が先に決まっていたからです。守る対象が決まると、撤退という選択肢が消え、残るのは「どう稼ぐか」の一択になります。

同記事では、下位の戦略(組織や資金の現実)からのフィードバックを受け入れすぎてはいけない、とも書きました。ただし浅野撚糸は、社員を3分の1にするという痛みを伴う調整も同時に行っています。理想だけで押し切ったのではなく、守る優先順位を決めたうえで、そこに合わせて組織を縮めました。順番を守るというのは、犠牲がないという意味ではありません。

この事例から考えられること

1. 不景気か構造変化かを、その時点で判別している

浅野氏の父は2000年の時点で「今回は構造的なもので、不景気とは違う」と見立てました。この判別が、待つのか変えるのかを分けています。業界全体の統計と自社の数字を並べたときに何が見えるかという問いは、他の業種でも立てられそうです。

2. 守る対象の順位が、危機の場面で問われている

協力工場、社員、家族、地域。全部は守れない場面で、どこから守るかの順位が問われました。順位が先に決まっているかどうかで、判断の速さが変わってくる可能性があります。

3. 取引金融機関が複数あったことが、資金を止めなかった

根抵当権が外れて融資が止まったとき、助けたのは信用金庫でした。1行だけの体制では、1つの判断で資金が止まりうるという読み方ができます。

3. SUPER ZEROと、失敗した試作品が「エアーかおる」になった話

水に溶ける糸を使う

浅野撚糸が持っていた複合撚糸の技術と、水溶性の糸を組み合わせたのが「SUPER ZERO」です。仕組みはこうです。まず元撚りの紡績糸と水溶性糸を合わせ、逆方向へ2倍に撚ります。その後、水溶性糸を温水で溶かすと、逆撚りが元撚りの方向へ戻ろうとする反動が働きます。この反動によって、繊維のあいだに多量の空隙が生まれます。開発に着手したのは2002年頃、本格的な製品化までに約5年を要しました。

「うちには複合撚糸という技術がありましたので、お湯に溶ける糸で撚糸をしてその糸がお湯で溶けたら、綿100%でも、ウール100%でも伸び縮みすることがわかりました……それが、スーパーZEROです」

「扱いにくい糸を撚るのが得意」と言っていたら、電話が来た

水溶性の糸との出会いは、営業の帰りでした。

「必死の営業から会社に戻ってきた2日後のことでした。一本の電話が入って、『新しく面白い糸を開発したんだが、扱いが難しすぎて使い物にならないんだ。浅野社長、確かこの前、扱いにくい糸を撚るのが一番得意だって言っていたよね。糸を送るから、何か使い道を考えてくれないか』と言われました。それが『お湯に溶ける水溶性糸』だったんです」

自分が営業先で言っていた一言が、材料を呼び寄せています。偶然の出会いというより、言い続けたことに対する反応でした。

この糸を使って、ゴムを使わずに自然な伸縮性を持つ糸の開発に成功し、特許も取得します。ただし、下請けである以上、取引先が「その糸を使った商品を売らない」と言えば手詰まりになります。

銀行の紹介で、同じくらい苦しい老舗と組んだ

地元の金融機関から紹介されたのが、三重県津市の老舗タオルメーカー、おぼろタオルでした。同社も安価な輸入品に押され、売上が全盛期の3分の1まで落ちて廃業寸前の状態でした。

「おぼろタオルさんへ足を運び、社長の加藤さんに『この新開発の糸を使って、世界初の伸び縮みするタオルを作りませんか』と提案しました。加藤社長は『よく分からんが、もううちも後がない。お前を信じてやってみるわ』と承諾してくれました」

落胆して帰ろうとした場面で、洗ってみた

3か月後、試作品ができます。ここからが、この事例で最も重要な場面です。

「すぐに糸を送り、3ヶ月ほど経った頃、加藤社長から『できたぞ!』と電話があり、私は期待に胸を膨らませて飛んでいきました。しかし、出来上がった試作品を触っても、全く伸び縮みしなかったんです」

「『加藤社長、全然伸び縮みしませんよ』と落胆して言うと、加藤社長は驚いた顔でこう言いました。『何を言っとるんだ。そんなところに溶ける糸は使っとらんよ。肌に触れるパイルの部分に全部使ったんだ』と」

指示と違う使い方をされていました。しかも浅野氏は、それを失敗だと判断しています。

「私は驚いて、『ええっ! パイルに溶ける糸を使ったんですか? そんなところに溶ける糸を使ったら、お湯で洗ったときに溶けてなくなって、スカスカになって意味がないじゃないですか!』と叫びました」

「『伸び縮みするタオルを作るために送ったんだから、もう一度糸を送るので、今度は指示通りベース部分に使って作ってください』と言って、私は帰ろうとしました」

浅野氏は帰ろうとしていました。ここで止めたのが、加藤社長です。

「しかし、加藤社長が『まあまあ、せっかく作ったんだから、一度お湯で洗って、水溶性糸を溶かしてみよう』と言うので、お湯に入れて洗ってみたんです」

「すると、信じられないことが起きました。水溶性糸が溶けて消えたことで、一緒にねじり合わされていた綿の繊維が、ねじれの反動で一気にブワーッと膨らんだんです。触ってみると、これまでに体感したことがないほどフワフワで、驚くほど軽い。水をかけると一瞬で吸い尽くしてしまう」

「そう、これが『エアーかおる』の誕生の瞬間でした」

本人は次のように総括しています。

「要するに、偶然だったんです。『間違い』から魔法のタオルが生まれました。今振り返ると、本当によく間違えてくれたと思います。もしあの時、指示通りに伸び縮みするタオルを正確に作っていたら、今のような大ヒットには絶対になっていませんでした」

失敗品を捨てなかったのではなく、捨てて帰ろうとしたところを相手に止められています。この事実が、この事例から読み取れることを変えます。

2007年6月に発売された「エアーかおる」の特長は、3つに整理できます。一般的なタオルより吸水性と速乾性が1.5倍程度あること、洗濯を繰り返してもボリュームが保たれること、毛羽落ちが少ないことです。繊維のあいだに作った空気の層が、水分を素早く吸い、素早く放す役割を担っています。エアーかおるの代名詞になっているボリューム感は、狙って作られたものではありませんでした。

なお、SUPER ZEROの技術は経済産業省「ものづくり日本大賞」の受賞者として記録されています。

この事例から考えられること

1. 仕様から外れた試作が、商品になっている

伸縮しないタオルは、当初の仕様から見れば失敗品でした。それを手に取って「ボリュームがある、柔らかい」と気づいた人がいたことで商品になっています。仕様どおりでない試作を廃棄の前に触る時間があるかどうかで、拾えるものが変わってくるかもしれません。

2. 共同開発の相手が、地元の金融機関の紹介から見つかっている

おぼろタオルとの出会いは、大垣共立銀行のビジネスマッチングでした。取引先の紹介は金融機関が持つ機能の1つで、この事例ではそこから転機が生まれています。

3. 素材の使いどころを、指定しすぎていなかった

横糸に使うはずの糸がパイルに使われたことが転機でした。外部の作り手に渡すときに用途を固定しすぎると、この種の発見は起きにくくなるという見方ができます。

4. 問屋に頼らず、自分たちで売る

築地の寿司屋で決めたこと

商品ができても、売れるとは限りません。営業に回っても成果が出ない日が続きました。転機は、営業帰りに寄った寿司屋です。

「その日も空振りに終わった営業に、疲れ果てて入った築地のすし屋……妻の真美さんは、舌鼓を打ちながら『いつかこの店に、社員みんなを連れて来たいね』と言った。その瞬間、決意しました。もう問屋や小売店には頼らない。自社のブランドとして、自ら販売しようと」

「いつかこのお店に社員を連れてこよう。だから絶対にあきらめちゃダメ」

商品名の由来も残っています。「エアー」は空気のような軽さ、「かおる」は「KAOL」で、Kはクラレ、Aは浅野撚糸、Oはおぼろタオルの頭文字、Lは英語の「LIVE」から取られました。素材を作った会社、糸を撚った会社、タオルを織った会社の3社が名前に入っています。ロゴの微笑む女性は、寿司屋で見た妻の横顔をもとにしたものです。

地域の仕組みを、そのまま販路にした

撚糸メーカーは通常、糸を出荷した時点で売上が立ち、最終消費者と接点を持ちません。これに対して浅野撚糸は、次の4つの顧客接点を10年以上かけて積み上げました。

  • エアーかおる公式オンラインショップによる直販
  • 安八町のふるさと納税返礼品としての登録
  • テレビ・新聞・ラジオの取材露出を起点にした口コミ
  • 直営店「エアーかおる本丸」の本社隣接出店

広告予算を投じて集客するのではなく、自治体、地銀、テレビという既に地域にある仕組みを、そのまま自社の販路にした形です。

主力商品の一つも、身近な提案から生まれています。

「浅野夫人からの『高い吸水性を備えるなら、現在のバスタオルの半分の大きさでもいいのでは』という提案がきっかけだった。そこで開発したのが『エニータイム』という商品だ」

吸水性が高いなら、バスタオルは半分の大きさでよい。この発想の転換が、収納しやすく乾きやすいという別の価値を生みました。

累計販売枚数は、2018年8月のカンブリア宮殿放送時点で約600万枚、2020年8月に1,000万枚、2022年12月に1,500万枚を突破し、2025年3月時点では1,900万枚規模に達しています。年間販売本数は2020年時点で約120万本でした。東海テレビは2020年の特集を「田んぼに囲まれた会社が生んだ年間120万本販売のタオル」というタイトルで報じています。

ローカルグローススタジオの分析:商品ではなく、用途の側を疑っている

インサイトを理解する ~「本当は○○したい」をつかむ〜で、私たちは「ユーザーは〇〇という課題を今は△で解決しているが、本当は××の方がいい」という構文を紹介しました。表面的な要望ではなく、その奥にある本音を捉えるための型です。

「エニータイム」は、この構文に当てはまります。バスタオルを使う人の課題は「体を拭く」ことですが、いまの解決策である大判のバスタオルには、かさばる、乾きにくい、洗濯機を占領するという不満が伴います。本当は、小さくてよく拭けるものがほしい。吸水性という自社の強みがあるなら、サイズを半分にできる。商品の性能を上げるのではなく、その性能で何を解決できるかを問い直した結果です。

同記事では、インサイトを見つける方法として「予想外の使われ方や活用方法」に注目することも挙げました。浅野撚糸の場合、その発見はどちらも社内の会議ではなく、身近な人との会話から出ています。売り方を決めた寿司屋の一言も、半分サイズの提案も、同じ相手からのものでした。

この事例から考えられること

1. 業界の常識を知らない人の視点から、商品が生まれている

半分サイズの提案は、業界の外にいる人の視点から出ました。商品を毎日使っている身近な人が、どこを不便だと感じているかは、社内の議論からは出てきにくい情報です。

2. 地域にすでにある仕組みが、販路になっている

ふるさと納税、地元テレビ、商工会。広告費を使わずに顧客と接点を持てる仕組みが地域にあり、それが実際に使われています。

3. 商品名に、関わった3社の名前が入っている

クラレ、浅野撚糸、おぼろタオルの頭文字を並べたネーミングが、3社の関係を強くしていました。共同開発の商品で、名前の中に全員を入れるという形です。

5. 双葉町へ。2度目の倒産危機

旅行気分で行った視察だった

双葉町への進出の起点は、2019年の経済産業省からの打診でした。ただし、当初は引き受ける気がまったくなかったと語られています。

浅野氏は福島大学の出身です。大学時代のOB会の幹部たちと、なかば旅行のような感覚で視察ツアーに参加しました。

「まあ、幹部たちと旅行に行く機会もなかなかないから、帰りに富士山に寄ったり、温泉に入って一杯やろうよ、というようなノリでしたね」

現地で見た光景が、その予定を変えます。見た目はきれいで、今にも住人が帰ってきそうな家々が並んでいるのに、人が一人もいない街並みでした。

「あの光景は本当にショックでした。今にもご主人が『ただいま』と帰ってきそうな、佇まいを残したまま、誰もいない。その姿を見てしまったらね、もう『知らない顔はできないな』と思ったんです。あそこが人生の大きな分岐点でした」

「わずかな時間でしたが、音のない景色を目の当たりにした瞬間、涙が出てきました。東京電力福島第一原子力発電所事故の影響というものはとんでもないものなんだと、心が痛んだことを本当に覚えています」

双葉町の伊澤史朗町長からは、こう言われています。

「浅野さん、事前調査の点数や現状を見ても、たぶん双葉町は選ばないと思う。でも隣町の浪江町など、進んでいるところもあるので、双葉郡に来てもらいたい」

条件が悪いことを、誘致する側が先に認めている場面です。それでも決めた理由を、本人は人で語っています。

「双葉町がどうとかじゃなくて、あの人たちと仕事がしたいから。あの人たちとだったらやれるなみたいな」

家族の反応も残っています。

「父親からは、『俺があと30歳若かったらやる』と。家内からは『たった一度の人生なので、後悔しないようにしてください』と。そして息子からは、『おじいちゃんがつくった会社で、親父の時に一度つぶれかけた。だから”無いもの”と思ってぜひやりたい』という言葉をもらった」

2019年に双葉町と立地協定を締結し、2023年4月22日、渡辺博道復興大臣が臨席するなかでグランドオープンを迎えます。双葉事業所の構成は次のとおりです。

  • 所在地: 福島県双葉郡双葉町中野地区復興産業拠点
  • 敷地面積 約28,000平方メートル、建屋面積 約6,000平方メートル、総事業費 約30億円規模
  • 撚糸工場「フタバスーパーゼロミル」(SUPER ZEROを年約500トン生産)
  • 直営タオルショップ「エアーかおる双葉丸」、カフェ、研修施設・イベントスペース

年間500トンという生産能力は、国内の撚糸メーカーだけを顧客とする規模を超え、海外向けの素材供給を視野に入れた水準です。双葉町と共同企画した「ダキシメテフタバ」シリーズは、双葉町の風景や地名をモチーフにしたタオルマフラーで、安八町と双葉町の両方でふるさと納税の返礼品に採用されました。

7,000人が住んでいた町に、180人

進出後、事態は想定どおりに進みませんでした。前提となる人口が、想定と大きく違ったためです。

双葉町にはかつて7,000人が暮らしていましたが、原発事故で一時は全町避難となり、誰も住めなくなりました。除染を経て避難指示が一部解除され、現在は180人ほどが帰還して暮らしています。総額30億円をかけ、岐阜の本社工場の3倍の広さを持つ施設を建てた場所の、実際の人口です。

「ところが、最初は本当に閑古鳥が鳴いていましたね。機械もまともに動かない。一体どうすればいいのかと」

コロナ禍も重なり、借金は最大26億円まで膨らみました。この時期を、本人は率直に語っています。

「この3年くらいが一番、苦しかったかな、人生で」

「我々の大義は『帰還される町民の働き場所』というのが心の支えだった。苦しいというか、一番後悔した瞬間でしたね」

「体重は落ちていくし、夜は寝られない。歯ぎしりで奥歯が全部つぶれました」

「ずっと後悔。でもそれを言ったら社員たちに失礼ですよね。でもずっと後悔していました」

大義があっても、数字が合わなければ経営は苦しくなります。1度目の危機は下請け構造の崩壊、2度目の危機は自ら選んだ進出でした。

19歳の言葉

転機になった場面も語られています。現地で採用した19歳の新入社員の言葉です。

「私はこれまで復興に何の役にも立てませんでした。でもこの会社に入ればやれると思いました。私の復興は『私がここにいること』です」

「壁の向こうで泣いて、自分を恥じました。『何を後悔しているんだ』と。もうスイッチが入りましたね」

2025年3月、双葉事業所からベトナム、ポルトガル、韓国への初輸出が実現しました。

「双葉から世界へ。製品を通じて復興の力となるよう努めてまいります」

なお、スーパーゼロの糸はホテル業界でも使われています。マリオットグループと提携する東京・竹芝の高級ホテルでは、開業当時から全室のバスタオルに採用されました。「こんなに軽くて、しかも肌触りが良く、吸水力が高いタオルは見たことも使ったこともない」という海外からの宿泊者の反応が紹介されています。

息子に、会社を手放す可能性まで話している

この記事はアトツギ編ですが、浅野氏はすでに次の承継について語っています。しかもその内容が特徴的です。

「この福島での巨大なプロジェクトが軌道に乗って成功したら、もううちの『浅野撚糸』という家族経営的な規模では収まりきらなくなると確信しています」

一緒に働く息子へ伝えていることも、公開されています。

「今の会社の規模だけにこだわるな。この福島・双葉町での事業がしっかり軌道に乗ったら、将来的には株式上場を目指すことも視野に入る。あるいは、より大きな資本と提携したり、M&Aで他社に買っていただく道もあるかもしれない。どのような形であれ、それが双葉という街にさらなる有効な復興と発展をもたらし、会社をより良く大きくすることに繋がるなら、その挑戦を躊躇してはならない」

「あと10年もすれば、私は経営の一線を退き、息子が経営を担っているはずです。その時には、この会社は世界に羽ばたくグローバル企業となり、売上規模で100億円を超えるような、そんな素晴らしい存在になっていると、私は強く信じています」

家業を守れとは言っていません。守るべきものが会社の形ではなく、双葉町の復興と事業の継続だと定義されているためです。協力工場を守るために廃業を拒んだ判断と、同じ考え方の延長にあります。守る対象を先に決めると、会社の形は手段になります。

ローカルグローススタジオの分析:場所への投資は、効き始めるまでに時間がかかる

顧客獲得コストを下げるには「ストック>フロー」を意識しようで、私たちはストック型の施策について、初期に時間や労力がかかり、すぐには効果が出ないと書きました。効果が出始めるまで通常3〜6か月かかる、とも書いています。

双葉町の工場と体験施設を読み解くと、私たちが記事に書いたストック型の投資と同じ性質を持っています。しかも回収が始まるまでの期間が、想定より長くなりました。帰還者数という前提そのものが動いたためです。ストック型の投資は、積み上がるまでの間、コストだけが先に出ます。浅野撚糸の場合、その期間に借金が26億円まで膨らみました。

同記事では、ストック施策とフロー施策のバランスを取るという考え方も書きました。浅野撚糸は、エアーかおるという既存の稼ぎ頭を持ったまま双葉へ投資しています。本業の売上があるため、回収の遅れに耐えられました。ストックへの投資が、回収までを支える現金の出どころとセットで動いていた例として読めます。

この事例から考えられること

1. 前提となる数字の下振れが、事業計画を揺らしている

帰還者数の見込み違いは、事業計画の前提が崩れる規模でした。どの数字がどこまで下振れしたら見直すのかを先に決めておけたかどうかは、この事例からは分かりません。ただ、前提が動いたときに何が起きるかは、はっきり記録されています。

2. 大義の正しさと、採算の成立が別だった

「帰還される町民の働き場所」という大義は正しく、それでも採算は別に苦しみました。社会的な意義がある事業でも、2つは別に検証される、ということがこの事例からは読み取れます。

3. 現場の一言が、経営の判断につながっている

19歳の社員の言葉が、経営者の迷いを断ち切っています。現場の声が士気の問題としてではなく、事業を続ける根拠として扱われた場面です。

6. ローカルグローススタジオの視点

冒頭に挙げた8つの観点を、本文で確認した事実で説明し直します。

1. 守る対象を決めたことで、撤退ではなく挑戦を選んでいる

自社に借金はなく、会計士も廃業を勧める状況でした。それでも続けたのは、協力工場10軒の借金と、その家族を守ると決めていたからです。守る対象が先に決まると、選択肢が絞られます。同時に、社員を3分の1にする決断も伴いました。

2. 開発の失敗が、別の価値を持つ製品になっている

SUPER ZEROは伸縮するタオルのための糸でしたが、パイルに使われた結果、伸縮せず厚みと柔らかさが出ました。ただし正確には、浅野氏はその試作品を失敗と判断し、作り直しを依頼して帰ろうとしています。止めたのは、おぼろタオルの加藤社長の「せっかく作ったんだから、一度お湯で洗ってみよう」という一言でした。

3. 地域にすでにある仕組みを、そのまま販路にしている

公式通販、安八町のふるさと納税、テレビ取材、直営店「エアーかおる本丸」。広告費で集客するのではなく、自治体、地銀、テレビという既にある仕組みを顧客接点に変えていきました。

4. 大義は正しく、それでも数字の見込み違いが効いている

双葉町への進出は「帰還される町民の働き場所」という大義から始まりました。しかしコロナ禍と帰還者数の見込み違いで、借金は最大26億円に膨らみます。大義の正しさと採算の成立が、別の問題として現れた場面です。

5. 危機が、2度にわたって訪れている

浅野撚糸は、下請け構造の崩壊で1度、双葉進出で2度目の危機を迎えています。1度乗り越えた会社が、次の挑戦で再び同じ場所に立つことがあります。1度目の成功体験が、2度目の前提の検証を甘くしうるという読み方ができます。

6. 切った痛みを、なかったことにしていない

「私は人を切ってるから、ある意味これは一生消えない」「数年間、口を利いてもらえなかった」。切った側の痛みまで含めて語っていることが、この事例の記録の信頼につながっています。

7. 失敗品を捨てなかったことが、主力商品につながっている

パイルに水溶性糸を使った試作品を、浅野氏は失敗と判断しました。「お湯で洗ったら溶けてスカスカになって意味がない」という理屈は、技術的に間違っていません。それでも結果は逆でした。自分の理屈が通っているときほど、確かめずに捨ててしまう、ということがこの場面から読み取れます。

8. 承継で渡すものを、会社の形ではなく目的で決めている

浅野氏は息子に対して、上場も、他社への売却も選択肢だと伝えています。条件は「双葉という街の復興と発展につながるなら」です。守る対象を会社の形に置いていないため、この選択肢が出てきます。協力工場を守るために廃業を拒んだ判断と、同じ構造です。家業を継ぐという言葉には、会社を残すことと目的を残すことの2つが含まれています。どちらを渡すのかが、先に決まっているかどうかで進み方が変わりそうです。

本事例から見える経営とマーケティングの学び

浅野撚糸の物語は、地方の下請け製造業が「発注元の海外移転」「自社ブランドの不在」「販路の欠如」という3つの宿題を、二代目への代替わりを起点に解いていった事例として読めます。重要なのは、浅野雅己氏が財務ではなく「誰を守るか」から意思決定を始めたことです。その順番があったため、廃業が合理的な場面で開発に踏み込み、問屋に頼らない販路を選び、条件の悪い双葉町を選べました。

同時に、この事例は大義だけでは経営が成り立たないことも示しています。2度目の危機で借金が26億円まで膨らんだのは、前提となる帰還者数が動いたからです。ブランドやリソースが薄い状態から成長を作る経営者にとって、浅野撚糸の歩みは「何のために続けるか」を考えるための学びになります。

「ビジネス知の機会格差をなくす」という私たちのミッションに向けて、これからも実践的で価値ある情報を発信していきます。この記事の内容について、さらに詳しく知りたい方は、ぜひご連絡ください。