先進企業に学ぶ(アトツギ編) – 石屋製菓株式会社|信頼を失った会社を継いだ3代目が、役職を廃止して立て直すまで

ローカルグローススタジオは、『地方企業にスタートアップのような成長を』というテーマで、コンテンツ発信と支援サービスを展開しています。この記事では、実践的なビジネスノウハウを、できるだけわかりやすくお伝えしていきます。

今回取り上げるのは、北海道札幌市西区宮の沢の石屋製菓株式会社です。1947年創業、1976年発売の「白い恋人」が北海道土産の代名詞となり、最盛期の2006年度には売上高180億円規模に達しました。ところが2007年8月、賞味期限の改ざんと食品衛生の問題が発覚し、操業停止の行政処分を受けます。創業家社長が引責辞任し、メインバンクから招いた社長のもとで再建に踏み出しました。当時副社長だった石水創氏は、その外部社長のもとで5年余りの準備期間を過ごし、2013年7月に31歳で社長に就任しています。2024年4月期にはグループ売上192億円規模、従業員約790名まで戻しました。

家業を継ぐ経営者は、引き継ぐ会社を選べません。与えられた会社の中の何を変え、何を守るかの見極めがすべてになります。石屋製菓の場合、継いだ時点で失われていたのは信頼でした。家業を継いだ方、これから継ぐ方に向けた事例として読み解きます。

この記事の要約

先にストーリーの全体像です。2007年8月、石屋製菓は賞味期限の改ざんと、一部製品からの大腸菌群・黄色ブドウ球菌の検出という問題を公表しました。石水勲社長が辞任し、北洋銀行出身の島田俊平氏が社長に就任。同時に外部委員会が設置され、11月に報告書が公表されます。報告書は原因を「ファミリービジネスの域を脱しないまま大型化した」ことに求め、衛生管理・コンプライアンス・労務管理の3つの体制について改善を求めました。会社は6つの新組織を設け、内部通報制度を導入し、経営理念を新たに制定します。売上ゼロの期間は3か月続きました。島田氏はその後も社長を務め、その間「次は創さんだからね。だからその準備をして下さいね」と伝え続けます。2013年、石水創氏が31歳で社長に就任。2020年のコロナ禍では年商210億円ベースから70億円まで落ち込み、工場は3か月停止しました。この局面で、幹部を全員リセットして「愛社精神」「行動力」「人徳」の3条件で選び直し、係長・主任・主査という役職を廃止して、現場のリーダーを立候補と選挙で決める仕組みに変えています。同時に、美冬の育成、東京への直営出店、ドバイ進出、サザエ食品の事業承継、コンサドーレの子会社化と、「白い恋人」への依存を下げる打ち手を進めました。

このストーリーから持ち帰れる観点は、次の9つです。それぞれ本文の章で事実を確認し、最後の8章で説明し直します。

1. 外部委員会が原因に挙げたのは、けん制の仕組みの不在だった(3章)

2. 危機の直後に承継せず、間に別の経営者を置いている(4章)

3. 平時に作った見学施設が、危機のときに信頼を示す場になっている(5章)

4. 売上が落ちた局面を、組織を作り替える機会にしている(6章)

5. 看板商品への依存度を、意識して下げている(7章)

6. 土地と強く結びついたブランドが、外に出るときに摩擦を起こしている(全体)

7. 過去の出来事を、消すのではなく使っている(全体)

8. 好調の理由を、自社の実力と切り分けて見ている(全体)

9. この会社は、一度目の危機も業態転換で越えている(全体)

各章の末尾に、ローカルグローススタジオの分析と「この事例から考えられること」をまとめています。

参考資料一覧

数字で見る石屋製菓

時点数字出典
1947年10月石水幸安氏(1917-1985)が札幌市北区茨戸で政府委託の澱粉加工業を開始公式サイト、公開報道
1948年ドロップス製造を開始。1957年に生菓子製造へ進出公式サイト
1959年10月石屋製菓株式会社として法人化公式サイト
1976年12月「白い恋人」発売公式サイト
1986年「白い恋人」がモンドセレクション金賞を受賞公開報道
1995年7月「チョコレートファクトリー」開業(2011年に「白い恋人パーク」へ改称)白い恋人パーク公式
2006年度売上高180億円規模(最盛期)公開報道
2007年8月賞味期限改ざんと衛生問題を公表。操業停止の行政処分。石水勲社長辞任、島田俊平氏が社長就任外部委員会報告書、公開報道
2007年11月13日コンプライアンス確立外部委員会が報告書を公表(全34ページ)石屋製菓公式
2008年度売上は70億円規模まで縮小公開報道
2013年7月石水創氏(1982年生まれ)が31歳で社長に就任公開報道
2017年4月東京・銀座に道外初の直営店「ISHIYA G」を出店公開報道
2019年7月12日白い恋人パークが大規模リニューアル。来場者数は年間約75万人規模白い恋人パーク公式
2020年度コロナ禍で年商210億円ベースから70億円まで落ち込み、工場は3か月停止本人談(北海道文化放送note)
2021年12月29日UAEドバイの「ドバイ・モール」に中東初の販売店をオープン石屋製菓プレスリリース
2024年4月期グループ売上192億8,436万円、従業員790名(製菓470名+商事320名)公開報道
2025年1月株式会社コンサドーレを6億円増資により持株比率60%で子会社化日本経済新聞

1. 1947年の澱粉加工業から、「白い恋人」誕生まで

石屋製菓の起点は、創業者・石水幸安氏(1917-1985)が1947年10月に札幌市北区茨戸で始めた、政府委託の澱粉加工業です。幸安氏は北海道雨竜郡一已村(現在の深川市)の出身で、戦前は南満州鉄道に勤務し、戦後の引き揚げ後に北海道で食品加工を起業しました。

1948年にドロップス製造を開始し、1957年に生菓子製造へ進出。1959年10月に「石屋製菓株式会社」として法人化されます。創業者が定めた社訓は「朗らかに、規律正しく、親切に」でした。

最初の30年は、駄菓子のメーカーだった

ここで見落とされがちなのが、創業からの約30年間の姿です。石水創氏の説明では、当時の石屋製菓はドロップやあんこ、駄菓子を作るメーカーでした。スーパーの一角にある安価な菓子を扱う会社です。

そして、この会社は一度潰れかけています。高度経済成長期に道外の大手メーカーが北海道へ進出し、価格競争に敗れて倒産の危機に陥りました。

そこから採った方針が、事業の性格を変えます。北海道の質の高い原材料を使い、付加価値の高い高級洋菓子を作る。この転換の先に「白い恋人」が生まれました。つまり2007年の問題より前に、この会社は一度、業態そのものを変えて生き延びています。

商品はできたが、名前が決まらなかった

商品名は、幸安氏がスキー帰りに雪を見て発した「白い恋人たちが降ってきたよ」というひと言に由来します。当時の状況を、孫にあたる石水創氏が説明しています。

「1976年に商品は完成したものの、名前が決まらず悩んでいました。当時、工場長だった私の父と、創業者の祖父がネーミングに頭を悩ませていたところ、趣味の歩くスキーから帰ってきた祖父が、チラチラと降る雪を見て『白い恋人たちが降ってきたよ』と一言つぶやいたそうです。それを聞いた父が『これだ!』と決定しました」

本人も、この話を最初は疑っていたそうです。

「最初は絶対後付けの嘘だろうと思ったのですが、祖父は実際に詩を書くのが趣味だったので、あながち嘘ではないなと思うようになりました」

背景には、1968年公開のフランス映画『白い恋人たち』の連想や、1972年の札幌オリンピックを契機とした北海道観光ブームがありました。

商品は、北海道産生乳から作るホワイトチョコレートを、フランス語で「猫の舌」を意味するラング・ド・シャという薄焼きクッキーで挟んだ構成です。1986年にモンドセレクション金賞を受賞し、1990年代以降は新千歳空港や札幌駅の土産売場での販売を通じて、北海道土産の代名詞になっていきます。

ここまでの石屋製菓は、創業者の起業から長男への代替わり、そして長期ヒット商品の確立という、地方の老舗食品メーカーとして典型的な成長軌跡を歩んでいました。次の局面に進むのは、2007年の問題によってです。

2. 2007年、何が起きたか

2007年8月14日、石屋製菓は記者会見を開き、自社工場で製造したアイスクリームから大腸菌群、バウムクーヘンから黄色ブドウ球菌が検出されたことを公表しました。あわせて、「白い恋人」の一部商品で賞味期限を延長する改ざんを行っていたことも明らかにしています。

外部委員会の報告書は、問題の内容を3つに整理しています。

1. 賞味期限の改ざん・伸長: 白い恋人、コーティングチョコ、オレンジコンフィ、鳴子パイについて、当初設定した賞味期限を伸長

2. 大腸菌群の検出: ミルキーロッキー、雪だるまくんアイスクリーム、カップアイスクリームから大腸菌群を検出

3. 黄色ブドウ球菌の検出: バウムクーヘンから黄色ブドウ球菌を検出

経緯も報告書に年表として記録されています。平成8年(1996年)10月ころから「白い恋人」に複数の賞味期限が設定され、平成16年ころからは4か月・5か月・6か月というパターンに拡大しました。平成19年6月30日にミルキーロッキーから大腸菌群が、7月28日にバウムクーヘンから黄色ブドウ球菌が検出されます。8月12日にミルキーロッキーの問題について新聞に社告を出し、8月14日に保健所へ報告して記者会見を開きました。15日に改ざんを発案した経緯を発表し、17日に前社長の退任と外部委員会の発足を発表、23日に石水勲社長が辞任して島田俊平氏が新社長に就任しました。

百貨店や土産店からは商品が一斉に撤去され、新千歳空港や札幌駅の売場から「白い恋人」が消えます。最盛期2006年度に180億円規模だった売上は、2008年度には70億円規模まで縮小しました。

経営の立て直しは、メインバンクである北洋銀行が主導しています。北洋銀行は操業停止中の運転資金を融資する条件として、創業家社長の退任と、同行取締役だった島田俊平氏(1944年生まれ、北海道大学経済学部卒、元北洋銀行常務)の社長就任を提案しました。

売上はゼロになりました。当時を、石水創氏はこう振り返っています。

「本当にショックでしたし、なぜこんなことが起きてしまったのかと。いま考えると組織の体制が不十分で、コンプライアンスに対する知識も無かった」

「まずは食品衛生法やJAS法など食に関わる専門的な知識、コンプライアンスの知識を社内に浸透させていきました。あとは売上ゼロの状態が3か月続き、当時父も社長を辞任して、この先どうなるんだろうと社員もすごく不安だったと思います」

「白い恋人」は2007年11月22日に道内での販売を再開し、2008年から徐々に従来の流通に戻っていきました。再開後の売上について、石水創氏は北海道の顧客の反応を挙げています。

「お叱りの声は今もいただきますし、その反省の上に今があります。問題が発覚した時は会社がつぶれると私を含めて多くの社員やご家族、お取引先が考えたと思います。製造と販売を再開した約100日後、以前の半分の需要と考えましたが、北海道のみなさまが真っ先に買ってくださいました。本当にうれしかったですね」

3. 外部委員会の報告書が指摘した原因

外部委員会は2007年8月31日から11月13日まで6回にわたって開かれました。委員長は公認会計士の簱本道男氏、委員は企業経営者、医師、学者、消費者代表、コンプライアンスと食品衛生の専門家、弁護士、公認会計士に、石屋製菓側の3名を加えた体制です。

報告書は、原因の総括をこう書いています。

「石屋製菓は『ファミリービジネス』の域を脱しないまま大型化したといわざるを得ない。そのため、株式会社が本来備えるべき体制・組織をほとんど備えていなかった。これが遠因となり、職員の安全に対する意識、消費者に対する思い入れ等が薄らいでいた」

直接的な要因として挙げられたのは、一部職員による賞味期限改ざんの実施、自主検査結果が適切に保健所へ報告されないこと、JAS法や食品衛生法等に関する認識の欠如、そして加熱殺菌工程の不徹底の可能性や器具類の消毒の不徹底です。

間接的な要因は、コンプライアンス体制に関わる4点でした。企業文化として「ファミリービジネス特有の企業統治による役職員のモチベーションダウン」。ガバナンスとして「取締役会の形骸化」「取締役の権限が不明確」「経営と所有の未分離」。組織として「一部の幹部への権限集中」「けん制のための仕組みが不在」。人事として「人事、評価、報酬各制度の設計、文書化及びそれらの公平な運用が不十分」。

これを受けた改善策は、衛生管理体制、コンプライアンス体制、労務管理体制の3本柱で実施されました。衛生管理では賞味期限判定基準と衛生管理マニュアル、返品の取扱基準を策定し、白い恋人の個包装に製造日と賞味期限を印字。アイスクリームの製造は再開しませんでした。コンプライアンスでは経営管理部、社長直轄の内部監査室、検査室を新設した品質管理部、お客様サービス室、森永製菓から製造部長を招いた製造部など6つの組織を設け、内部通報制度を12月1日から始めています。通報先には外部の法律事務所を指定しました。労務管理では扶養手当と住宅手当を新設し、基本給を改訂し、退職金制度を創設しています。そして経営理念を新たに制定しました。「北の国の真心で心を結びます。」

報告書が石屋製菓の公式サイトで全文公開されたことも、この再建の特徴です。原因を経営者個人の問題に留めず、ガバナンスの構造として公開資料に残しました。

ローカルグローススタジオの分析:組織戦略の欠落が、事業そのものを止めた

私たちは間違ってはいけない戦略の順番|ビジョン→事業→商品→営業→組織という記事で、戦略にはビジョン、事業、商品、営業、組織という階層があり、上から順に決めるという考え方を書きました。同時に、組織戦略は営業戦略を実行するための手段であり、階層の最後に来るものだとも整理しています。

石屋製菓の2007年は、この最後の階層が空白のまま事業だけが大きくなった結果として読めます。報告書が挙げた「取締役会の形骸化」「一部の幹部への権限集中」「けん制のための仕組みが不在」「人事、評価、報酬各制度の設計、文書化及びそれらの公平な運用が不十分」は、いずれも組織戦略の設計項目です。商品は売れ、営業も成立していたのに、組織の設計だけが創業期のまま残りました。

同記事では、内製と外部活用を柔軟に使い分けるという考え方も書きました。石屋製菓の再建を読み解くと、同じ記事に書いた外部の力を入れる方法と同じ考えで進めていることが分かります。社長を北洋銀行から迎え、内部監査室に弁護士と公認会計士を置き、製造部長を森永製菓から招いています。組織の欠落は、社内の人材だけでは埋まらない場合があります。

この事例から考えられること

照らし合わせてみる項目

  • 取締役会が、実質的な議論の場になっているか
  • 特定の幹部に権限が集中したときに、けん制する仕組みがあるか
  • 人事評価と報酬の基準が、文書になっているか
  • 現場の判断が経営に上がる経路が、上司以外にもあるか
  • 法令の知識が、担当者個人の経験だけに依存していないか

事例から読み取れること

1. 外部委員会が挙げた原因は、けん制の仕組みの不在だった

報告書が指摘したのは個人の資質ではなく、けん制のための仕組みがなかったことです。検査する人と製造する人、発注する人と支払う人が分かれているかという問いは、業種を問わず立てられます。

2. 通報先が、社外に置かれている

石屋製菓は外部の法律事務所を通報先に指定しました。社内だけの窓口では、上司が関与している場合に機能しにくいという考え方が背景にあると読めます。

3. 足りない機能を、外から人を入れて埋めている

社長を金融機関から、製造部長を同業大手から迎えました。社内の昇進だけでは埋められない機能があると判断したときの選択肢として読めます。

4. 空白の期間と、31歳での就任

新社長に就任した島田俊平氏は、就任時に社員へこう伝えました。

「そんな中で北洋銀行から島田俊平さんが社長に就任し、はっきりと発信して下さったんです。『石屋製菓は、数字の部分で大丈夫です。(仮に)この先、2年製造しなくても全く問題ない。みなさん(パート含む従業員480人)の雇用はしっかりと守ります』。安心しましたね。自分たちのやるべきことはハッキリしていて、そこに向かって進めばいいんだと思えた。いま考えるとすごく大きかったなと思います」

危機の直後に、経営者が最初に伝えたのが「雇用は守る」という一点でした。そのうえで、次の承継についても明示しています。

「島田さんが5年間社長を務めて下さって、その間『次は創さんだからね。だからその準備をして下さいね』とずっと話してくれていました。嬉しかったし、安心感にもつながりました」

創業家の人間が問題の直後に社長に就くのではなく、外部から来た経営者が体制を立て直し、その間に次の代の準備をさせています。島田氏は2007年8月から2013年7月まで社長を務め、退任後は相談役に就いています。

2013年7月、石水創氏が31歳で社長に就任しました。1982年生まれの札幌市出身で、東洋大学法学部経営法学科を卒業後、小樽商科大学大学院商学研究科アントレプレナーシップ専攻を修了。2004年に石屋製菓へ入社し、2006年に取締役、2008年に常務、2009年に専務、2010年に副社長を経ての就任です。

2007年の問題後、創業家から外部へ、そして再び創業家へと、社長職が二段階で渡ったことになります。世襲か外部招聘かという二者択一ではなく、両者を時系列で組み合わせた形です。

父である石水勲氏との関係も語られています。

「経営者の父も、普段の父も、あまり変わりませんでした。常にフラットな人でした。父は、私が小さいころから家ではいつも仕事の話をしていました。父はすごく楽しそうなんですよね。その姿を見て、石屋製菓の社長になりたいと夢見るようになりました」

「よく言われたのは『努力しろ』ということです。父の好きな言葉でもありました。2013年に私が石屋製菓の社長に就任してから、その言葉は増えたように思います。企業のトップは孤独です。一方で、チヤホヤされたり、言い寄られたりもします。だから、自分に対して甘くしようと思えば、いくらでもできる。ですから、自分をしっかりと持って、きちんと努力しろ。自分に厳しくやれ、と教えられました」

「一方で、父は褒め上手でもありました。結構、怒ったり、感情的になったりもするんですけれど、最後に必ず『でも、お前なら大丈夫だ』とフォローが入るんです。この一言に救われるんですよ」

「(亡くなられたお父様にかけてあげたい言葉は)『お疲れさま。あとは任せて!』ですね。父も『後は頼んだぞ』と言ってくれている気がします」

石水勲氏は、引責辞任の後、2009年7月に顧問として復職し、同年9月に取締役相談役、2011年7月に代表権のある会長として復帰しました。2021年7月に名誉会長へ退き、同年9月26日に逝去しています。創業家への経営の回帰は、創氏が父とともに約8年間並走したのちに完了した形です。

就任時に決めた、判断の基準

社長就任にあたって、石水創氏は経営理念を新しく定めています。「しあわせをつくるお菓子」という一文です。

「お菓子を通じて、お客様、従業員、そして地域の人たちの幸せのために我々は存在する、という思いを込めたシンプルなメッセージです。従業員が何かに迷ったとき、『これはお客様の幸せに繋がっているか』『従業員の幸せに繋がっているか』『北海道のためになっているか』を判断基準として、自発的に行動できるようにという思いを込めています」

掲示する言葉ではなく、現場が迷ったときに参照する道具として設計されています。

売上が2倍になったが、それを「膨張」と呼んだ

就任後、業績は急速に伸びました。インバウンド需要の増加と、国際線免税店での販売が重なった時期です。売上は就任時の2倍まで拡大します。

ただし、本人はこれを成長とは呼んでいません。自らの手腕によるものではなく外部環境によるものであり、成長ではなく膨張だったと分析しています。実際、現場は人手不足と供給対応に追われる日々でした。

好調の理由を自社の実力と誤認しなかったことが、次の判断につながります。この時期に決めたのが、北広島の新工場建設と、2017年のGINZA SIXへの道外初出店でした。

なお、国内では北海道でしか買えないという原則も、この時期に効いています。

「今も基本的に日本国内では北海道でしか買えないようにしています。ただし、海外枠という位置づけで、日本国内の国際線空港の免税店では販売しています。パスポートを提示して税関を通った先は『海外』という位置づけになり、日本のお土産として購入していただけます」

この国際線への展開は、父である勲氏の代、2000年代前半の決定でした。「これから必ずインバウンドの時代が来る。外国人にとって、日本に来たら白い恋人を買おうという時代が必ず来る」という読みによるものです。ご当地の土産菓子として国際線の免税店に最初に出店したのが「白い恋人」で、その後に他社が続きました。

父にかけられた言葉

コロナ禍で業績が落ち込んだ時期、石水創氏は父に相談しています。

「お前は何か悪いことをしたのか? 悪いことをしていないなら、しょうがねえべ。人のために、喜んでもらうためにやっているなら胸を張ってやれ」

自分の判断の誤りで招いた事態なのかどうかをまず切り分け、そうでないなら姿勢を変える必要はない、という言葉です。この言葉に救われたと語られています。

この事例から考えられること

1. 危機のときに、雇用の方針が最初に伝えられている

「2年製造しなくても問題ない。雇用は守ります」という発信が、社員の不安を止めました。数字の見通しと雇用の方針が、最初に出た情報だったことになります。

2. 承継の予告が、当人と社内の両方に届いている

「次は創さんだから、その準備をしてください」と伝え続けたことが、後継者の準備期間になりました。誰にいつ渡すかが早く共有されていた例です。

3. 危機の直後ではなく、間に別の経営者を置いている

危機の直後に若い後継者へ渡すのではなく、外部から来た経営者が5年余り務めました。次の代へ直接渡す以外の形が取られた例として読めます。

5. 白い恋人パーク、平時に作った「見せる工場」

石屋製菓を語るうえで、もう1つ重要なのが「白い恋人パーク」です。本社工場に併設された見学・体験施設で、1995年7月に「チョコレートファクトリー」として開業しました。問題が起きた2007年より、12年前のことです。

施設は、英国チューダー様式の建物群、ローズガーデン、おもちゃ博物館、製造ラインの見学、お菓子作り体験を組み合わせた構成になっています。2011年に「白い恋人パーク」へ改称し、2019年7月12日には大規模なリニューアルを実施しました。3階フロアに「チョコトピアファクトリー(工場見学)」と「チョコトピアハウス(チョコレート史展示)」が再編され、新たに「チョコトピアマーケット(飲食・体験エリア)」が設けられています。これまで見学できなかったバウムクーヘンの製造ラインも、ガラス越しに見えるようになりました。

公式サイトの案内では、白い恋人の製造ラインをガラス越しに見学できる構成だと紹介されています。1日あたりの製造枚数は資料によって幅があり(石屋製菓のCSRページでは北広島工場と宮の沢工場を合わせて1日最大140万枚の製造能力、宝島社の刊行案内では1日83万枚)、ここでは単一の数字を示しません。

来場者数は年間約75万人規模です。石水創氏は、この施設が持つ意味を、顧客との距離の近さとして語っています。

「(白い恋人パークの)本社の目の前に『白い恋人パーク』があるので、お客様がいらっしゃって実際にお菓子を買ったり、お菓子づくり体験をしたりというのを間近に見ることができます。そこでお客様の表情や召し上がっている姿を見て、『お客様がこういうふうに言っていたよ』とフィードバックできるような、そういう土壌があるのは大きいかもしれません」

この施設が、問題の後に別の意味を持ちました。ガラス越しに製造現場が見えるということは、そのまま透明性を実物で示すことになります。2019年のリニューアルで見学範囲を広げたのも、見せる範囲を増やすという方向の延長線上にあります。ただし、この施設は再建のために作られたものではありません。平時に作られていたものが、危機のときに機能したという順序です。

ローカルグローススタジオの分析:一度作れば効き続ける場所に投資している

顧客獲得コストを下げるには「ストック>フロー」を意識しようで、私たちは、広告のように出稿を止めれば効果が消えるフロー型の施策と、一度作れば効き続けるストック型の施策を分けて考えるという考え方を書きました。予算の限られる企業ほど、ストック型の比重を上げる意味が大きくなります。

白い恋人パークを読み解くと、そのストック型の考え方と同じ考えが表れています。1995年に開業し、30年にわたって年間数十万人を集めています。しかも来場者は、菓子を買いに来た人だけではありません。工場を見に来た人、体験に来た人、庭を見に来た人が、それぞれの理由で訪れます。

同記事では、ストック型の施策は効果が出るまで時間がかかるとも書きました。石屋製菓の場合、その投資が効いたのは開業から12年後、しかも当初想定していなかった局面でした。信頼を回復する場面で、製造現場を見せられる施設が既にありました。ストック型の投資は、作った理由とは別の場面で効くことがあります。

この事例から考えられること

1. 製造現場が、見せられる状態に保たれている

見学者を入れられるかどうかは、日々の整理整頓と手順の徹底に左右されます。平時からその状態にあったことが、危機のあとに効いた例です。

2. 顧客の反応を、現場が直接見ている

「お客様の表情や召し上がっている姿を見て、フィードバックできる」という状態が、商品開発の土壌になっています。売り場と作り場が離れている会社にとっては、この機会をどう作るかが問われそうです。

3. 施設の目的が、1つに絞られていない

工場見学、展示、飲食、体験、庭。目的が複数あることで、来訪の理由も複数になっています。用途を1つに絞った施設とは、時間が経ったときの残り方が変わってきそうです。

6. コロナ禍で、役職をなくした

年商210億円が70億円に

2020年、観光需要の消失が石屋製菓を直撃しました。

「そうですね、もう本当2月ぐらいの段階で影響が出始めました。観光客が雪まつりまではまだ良かったんですけど、雪まつりが終わってから、インバウンドが急にガクンと減って、売り上げも2月の段階でだいたい3割ぐらい減ったんですよ。…3月は7割減で4月の売上に至っては9割減というような形で」

「人生で一番つらい期間でした。売り上げは激減です。コロナ以前の年商210億円ベースから、2020年度は70億円まで落ち込みました。これは本当に大変で、工場は3か月間稼働できませんでした」

このときに打った手は、2つでした。

「まず組織を『コンパクト』にしました。あとは『撤退』です。不採算店舗をやめる判断・決断は、経営者にしかできないこと。その2つが一番大きかったです」

幹部を全員リセットして、選び直した

同時に進めたのが、人事制度の作り替えです。

「合言葉として『今だけ、金だけ、自分だけ』はやめようと発信しました。そのときは、かなり売上が下がっていまして、工場も3カ月間ストップしているような状況でしたね。これはもうなんとかするしかないということで、まずは、役員や経営幹部も含めて、全部をリセットしました。ただリセットするのではなくて、きちんと基準を決めました。幹部になる者の必須条件は『愛社精神』と『行動力』と『人徳』。マネジメント職に立候補した社員全員を、これらの条件で360度評価したんですよね」

そして2021年、役職そのものを廃止します。

「あとは、係長や主任などの役職をなくしました。リーダーは全部『挙手制』です。自分がやりたい人は手をあげる。そしてリーダーを決めるのは上司ではありません。選挙です。現場から『この人についていきたい』という人をリーダーにしよう、という方向性に変えました」

「要するに立候補制にしたんです。すると、立候補してくれる社員が結構いて、それは上司が決めるのではなく、選挙で決めようということにしました。現場で選挙して、票数が高かった人がリーダーになる仕組みに変えました」

評価基準も変えています。

「そもそも挑戦をしないと評価されない人事制度に変革しました」「この評価基準だと、チャレンジして失敗したとしても2番目に評価されますからね」

目指した状態も、本人の言葉で示されています。

「日本一失敗できる会社にする、ですか」「そうです。失敗できる環境を現場にも根付かせていこうと今やっています。現場に行くと、もっとこうすればよかったけど、上にダメと言われてやめようということが起こっていた。そうすると提案が出なくなる」

2007年の報告書が指摘した「人事、評価、報酬各制度の設計、文書化及びそれらの公平な運用が不十分」という点に、14年後、別の危機を機に手を入れたことになります。

5つの戦略のうちの1つだった

役職の廃止は、単独の施策ではありません。コロナ禍を「真の強さを手に入れるためのターニングポイント」と位置づけた中期の方針「STAND BY HOKKAIDO」の中にある、5つの戦略の1つでした。

1. 道内の顧客接点を増やす

2. 売上という量より、ブランディングという価値を重視する

3. 地域とともに歩む。ナンバーワンではなくオンリーワンを目指す

4. 人や機会の流動性を上げる

5. 日本一失敗できる会社にする

2つめの「量より価値」は、具体的な撤退の判断として実行されています。観光客に頼る物産展への際限のない出店や、安易な越境ECの拡大を一度見直し、ブランドの安売りを防ぐために縮小しました。売上が落ちている局面で、売上を取りにいく施策のほうを止めています。

5つめを具体化するために、提案制度も動かしています。現場から出た提案は、どんな小さなものでもすべて審査し、良いものは全員で共有して称え合う。役職の廃止と選挙制は、この土壌を作るための人事側の仕掛けでした。

女性が8割の職場で、保育園を作った

組織の話でもう1つ挙げておくべきなのが、社内保育園です。石屋製菓は社員の約8割が女性で、平均年齢は30代前半です。かつては結婚や出産を機に退職する社員が多く、本人の経歴にとっても会社にとっても損失でした。

そこで開設したのが、社内保育園「白い恋人キッズパーク」です。本社のある札幌市西区は待機児童が特に多い地域でした。

「会社のすぐ近くに保育園があり、園児たちが実際に白い恋人パークに来て遊んだり、パパやママが働いている世界を間近に見ることができます。親がこういう夢のある場所で働いている姿を子どもが見られるというのは、すごく幸せなことだと思います」

育児休業から復職する社員が大幅に増えただけでなく、子どもを預けられずに働けなかった地域のパート採用の希望者からも反響があったと説明されています。

ローカルグローススタジオの分析:リーダーを選ぶ基準を、成果ではなく影響で決めている

マネジメントとは、今のリソースでやりくりすること、リソース調達力を上げること。バフ人材とデバフ人材を見極める。で、私たちは周囲のパフォーマンスやモチベーションを高める人材(バフをかける人材)と、下げる人材(デバフをかける人材)を分けて考えるという考え方を書きました。バフをかける人材の特徴として、他者の成長をサポートすること、協力的な姿勢を持つこと、心理的安全性を作ることを挙げています。

石屋製菓が幹部の必須条件に置いた「愛社精神」「行動力」「人徳」の3つは、この考え方に近い基準です。特に「人徳」は個人の業績ではなく、周囲との関係で決まる資質です。しかもその判定を、上司ではなく現場の選挙に委ねています。同記事で書いたとおり、バフをかけているかどうかは、上から見るより周囲から見たほうが正確に分かります。

同記事ではもう1つ、心理的安全性がチームの挑戦を左右するとも書きました。「日本一失敗できる会社にする」「チャレンジして失敗したとしても2番目に評価される」という制度設計は、失敗の許容を精神論ではなく評価基準に落とし込んだものです。上司がダメと言うから提案が出ない、という現場の状態を、評価制度の側から変えにいっています。

この事例から考えられること

1. 管理職の条件が、業績以外の言葉で示されている

「愛社精神」「行動力」「人徳」。数値目標の達成率ではありません。何を基準に管理職を選ぶのかが、業績の外側の言葉で書かれている例です。

2. リーダーの選定に、現場の声が入っている

上司が決めるのではなく、現場が選ぶ形が取られました。全社でなくても、誰についていきたいかを聞くだけで、上からは見えていない情報が出てくる可能性があります。

3. 失敗の扱いが、評価制度に書き込まれている

「チャレンジして失敗したとしても2番目に評価される」という基準が制度に入っています。呼びかけではなく制度に書いたことが、挑戦の量に影響していた可能性があります。

7. 「白い恋人」依存を、意識して下げる

3代目就任後の打ち手は、看板商品への依存度を下げる方向に並んでいます。

1つめは、新製品の育成です。2003年に発売されたミルフィーユ菓子「美冬(みふゆ)」は勲氏の時代から育てられた商品で、創氏の就任後にラインアップが広がりました。2023年12月には20周年記念商品「美冬 おとなショコラ」を発売し、その後も季節限定の派生商品を続けています。

2つめは、北海道外への直営展開です。2017年4月、東京・銀座にギフトに特化した「ISHIYA G(イシヤジー)」の1号店を出店しました。石屋製菓にとって道外初の直営店です。ブランド名の「G」はGift(贈り物)、Grace(品格)、Ginza(発祥地)を意味し、北海道土産の枠を超えた贈答菓子というポジションを設定しています。2020年9月にはGINZA SIXへ、2021年にはコレド室町テラスに「ISHIYA NIHONBASHI」が開業しました。

ただし、道外への出店には地元からの反発もありました。

「たとえば、2017年に東京のGINZA SIXに『ISHIYA G』を出店したとき、新聞に大きく掲載されたんですよ。そうしたら、北海道民から苦情の嵐で。『石屋製菓、北海道を捨てるのか』と。『白い恋人を銀座に出しちゃいけないだろう』と言われたんですよ」

商品と土地の結びつきが強いことは、別の失敗でも確認されています。

「実は、私が会社に入りたてのころに、ホワイトデーで『白い恋人』を売り出そうというキャンペーンをやったのですが、大失敗に終わりました。なぜなら、ホワイトデーに『白い恋人』を受け取った女性は、バレンタインデーのお返しだと思わないんですよ。『北海道に行ってきたの?』となるのです。それぐらいブランドイメージが、北海道と強く結びついているといえますね」

3つめは、海外展開です。2021年12月29日、アラブ首長国連邦ドバイの「ドバイ・モール」に「白い恋人」の販売店をオープンしました。中東初の正規販売拠点で、ドバイ限定の商品も投入しています。北海道新聞の取材で、石水創氏はコロナ禍によるインバウンドの消失を契機に、土産への依存から海外で売る形への転換を進めていると語っています。

4つめは、グループ事業の拡張です。2015年6月、和菓子・惣菜の老舗「サザエ食品」(本社・札幌)の道内事業を100%子会社として継承し、首都圏事業の不振で会社整理を決めていた同社の北海道内72店舗と従業員を、雇用ごと引き継ぎました。2025年1月には、Jリーグ・北海道コンサドーレ札幌を運営する株式会社コンサドーレを6億円の増資により持株比率60%で子会社化し、石水創氏が同社の代表取締役社長を兼任しています。

「昨年J2に降格し、本当に悔しくて情けなくて。社外取締役としてコンサドーレの経営に関わっており、責任をすごく感じました。経営面では、実質7期連続赤字。これだけ集客があり、パートナー企業の数も増えて、売り上げも50億円を達成したのに赤字です。コンサドーレをなくすわけにはいかないという使命感があり、チャレンジしよう、フルコミットしようと決めました」

「これはもう債務超過の解消が目的です。ここを解消しないと、クラブライセンスが剥奪されてしまうので、喫緊の課題という認識です」

石水氏とこのクラブの関係は、経営に入るずっと前から始まっています。クラブが設立された1996年、石水氏は中学3年生でした。父に連れられて家族で観戦した試合の後、見ず知らずのサポーター同士がハイタッチをして喜び合う光景を見て、そこからサポーターになったと語られています。

就任後にまず取り組んだのは、クラブの指針を言葉にすることでした。2024年4月にニセコで経営幹部の合宿を行い、強化部長やスタッフ、監督、選手、アカデミーに至るまでアンケートを取って、2つのフィロソフィーを策定しています。クラブとしての「赤黒の意志で、北海道の夢をつなぐ」と、フットボールとしての「走る・闘う・規律を守る、その笑顔のために」です。

2つの会社を並行して経営することについても語られています。難しいのは時間の配分より頭の切り替えで、午前に菓子の会議、午後にサッカーの打ち合わせという日が続きます。ただし目的は共通していて、人を幸せにする、喜ばせる、笑顔を作るという点では同じだといいます。違うのは意思決定の速度で、プロスポーツは毎週結果が出るため、臨機応変で速い判断が求められると本人は語っています。

経営者としての姿勢も、一言で語られています。一喜一憂せず、真剣であっても深刻にはならない、という姿勢です。

訴訟の相手と、7年後に組む

道外での展開に関して、もう1つ特徴的な判断があります。2011年に起こした訴訟と、その後の展開です。

「発端は吉本興業のお菓子『面白い恋人』です。吉本さんは最初、関西圏だけでそのお菓子を売っていたのですが、東京や新千歳空港のお土産屋でも販売するようになりました。そうなると当社の『白い恋人』と紛らわしくなってしまう。そこで当社から訴訟を提起しました。2011年のことで私はその時は副社長でした。裁判は1年半かかりましたが、和解をして関西圏だけで『面白い恋人』を販売しても良いということになりました。和解した直後、吉本興業の役員の方が当社に来られて、謝罪された後に『コラボ商品を開発しませんか』と提案されました。和解した直後でしたから断りました」

その判断が変わったのは、大阪への出店を考えたときです。

「(その後大丸心斎橋出店で)大阪で『白い恋人』の知名度はあっても『ISHIYA』ブランドは知名度がありません。どうしようかと考えていた時に、大阪には吉本さんがいるじゃないかと思い立ったわけです」

「『白い恋人』と『面白い恋人』との争いは当時全国的なニュースになりました。和解した後も道外の人と面談すると、必ずと言って良いほどその話になりました。お客さまの脳裏に焼き付いていると感じました。逆手に取ると面白いかも知れないと当社の開発や販売部門などから湧き起こってきたのです。実は私は考えてもいなかったので、『それは面白い』と即、決断しました」

社名の認知がない土地で、すでに知られている文脈を使っています。しかもその文脈は、自社が起こした訴訟でした。なお、この提案は社長からではなく開発や販売の部門から上がっています。

業績面では、2024年4月期のグループ売上(石屋製菓と石屋商事の合計)が192億8,436万円、従業員数790名に達しました。最盛期2006年度の180億円規模を上回り、事件後の最も落ち込んだ水準からは倍以上に戻したことになります。

ローカルグローススタジオの分析:自社の弱い土地では、すでにある文脈に乗る

地方企業やスタートアップに共通する、低リソース・ブランド無しの戦わない戦略で、私たちは知名度のない企業が正面から戦わずに済む方法として、他社との協業を挙げました。共同キャンペーンや共同での発信によって、互いの顧客基盤とブランドを使い合う型です。

大阪での「ISHIYA」の状況は、この記事が想定する低知名度の状態そのものでした。北海道では圧倒的なブランドを持ちながら、社名は関西で知られていない。ここで広告費を投じて認知を作るのではなく、すでに人々の記憶にある「白い恋人と面白い恋人の訴訟」という文脈と、その当事者である吉本興業を使いました。

同記事では、バリューチェーンを分解すれば競合に見える相手がパートナーになると書きました。石屋製菓の場合、相手は競合というより訴訟の相手です。それでも、関西での知名度という自社にない資産を持っていました。争った相手であっても、自社に足りないものを持っているなら組む相手になりうる、という判断です。

この事例から考えられること

1. 商品名は知られていても、社名は知られていなかった

進出先で何が知られていて何が知られていないかは、分けて把握しないと見えません。この事例では、その差が打ち手を変えています。

2. すでにある記憶に乗る形を選んでいる

新しく認知を作るのではなく、すでに知られている文脈に乗る方法が取られました。過去の出来事も含めて棚卸しすると、同じような素材が見つかる場合があります。

3. 現場から上がった案が、そのまま実行されている

吉本興業との企画は、社長ではなく開発と販売の部門から出た案でした。経営者が思いつかない案が上がってくる状態が保たれていた例と読めます。

8. ローカルグローススタジオの視点

冒頭に挙げた9つの観点を、本文で確認した事実で説明し直します。

1. 外部委員会が原因に挙げたのは、けん制の仕組みの不在だった

外部委員会の報告書は、原因を「ファミリービジネスの域を脱しないまま大型化した」ことに求めました。挙げられたのは、取締役会の形骸化、権限の集中、けん制の仕組みの不在、人事評価制度の未整備です。商品と営業が成立していても、組織の設計だけが創業期のまま残ることがあります。

2. 危機の直後に承継せず、間に別の経営者を置いている

外部から迎えた社長が5年余り務め、その間に体制を立て直しながら「次は創さんだから、その準備をしてください」と伝え続けました。創業家から外部へ、そして再び創業家へ。世襲か外部かの二者択一ではなく、時系列で組み合わせた形です。

3. 平時に作った見学施設が、危機のときに信頼を示す場になっている

白い恋人パークは、問題の12年前にあたる1995年に開業しました。ガラス越しに製造現場が見える施設が既にあったことが、信頼を回復する局面で効いています。作った理由とは別の場面で効くことがあります。

4. 売上が落ちた局面を、組織を作り替える機会にしている

年商210億円ベースが70億円まで落ちた局面で、幹部を全員リセットして「愛社精神」「行動力」「人徳」で選び直し、係長・主任・主査という役職を廃止して、リーダーを立候補と選挙で決める仕組みに変えました。平時には通しにくい改革です。

5. 看板商品への依存度を、意識して下げている

美冬の育成、銀座と日本橋への直営出店、ドバイ進出、サザエ食品の事業承継、コンサドーレの子会社化。「白い恋人」が強いからこそ、その依存を下げる打ち手が並んでいます。

6. 土地と強く結びついたブランドが、外に出るときに摩擦を起こしている

ホワイトデーのキャンペーンが失敗し、GINZA SIXへの出店には地元から苦情が来ました。地域と強く結びついたブランドは、それ自体が資産であると同時に、動かしにくさでもあります。外に出るときに、地元への説明をどう組むかが問われた場面です。

7. 過去の出来事を、消すのではなく使っている

訴訟の記憶を消そうとするのではなく、認知として使いました。都合の悪い過去を隠すのではなく、事実として扱ったうえで、そこから何ができるかを考えています。2007年の問題について「お叱りの声は今もいただきますし、その反省の上に今があります」と語る姿勢も、同じ扱い方です。

8. 好調の理由を、自社の実力と切り分けて見ている

インバウンド需要で売上が2倍になった時期を、石水氏は「成長ではなく膨張」と呼んでいます。外部環境によるものだと切り分けたうえで、その資金と時間を新工場と道外出店という次の投資に向けました。売上が伸びている局面で、その理由が自社にあるのか市場にあるのかを分けて見ていたかどうかが、後の判断を左右したように読めます。

9. この会社は、一度目の危機も業態転換で越えている

2007年の問題が有名ですが、それ以前にも倒産の危機がありました。創業から約30年間は駄菓子のメーカーで、高度経済成長期に道外の大手が進出したことで価格競争に敗れています。そこから「北海道の質の高い原材料で、付加価値の高い高級洋菓子を作る」と方針を変えた先に「白い恋人」が生まれました。安いものを作る会社から高いものを作る会社へ変わり、この転換があったため、後の40年があります。

本事例から見える経営とマーケティングの学び

石屋製菓の物語は、地方の同族企業が「組織設計の欠落」「観光需要への依存」「看板商品への集中」という3つの宿題を、2度の危機を起点に解いていった事例として読めます。重要なのは、2007年の外部委員会が指摘した人事制度の問題に、14年後のコロナ禍という別の危機で手を入れていることです。指摘された時点ではなく、組織が動く局面まで待って着手した形になっています。

そして、石水創氏が語る内容には、成功だけでなく失敗と反省が並んでいます。信頼を失った会社を継ぐという経験が、その語り方を作っているようにも読めます。ブランドやリソースが薄い状態から成長を作る経営者にとって、石屋製菓の歩みは「何を立て直し、何を残すか」を考えるための学びになります。

「ビジネス知の機会格差をなくす」という私たちのミッションに向けて、これからも実践的で価値ある情報を発信していきます。この記事の内容について、さらに詳しく知りたい方は、ぜひご連絡ください。