先進企業に学ぶ(アトツギ編) – 株式会社能作|下請けからメーカーへ、職人18年を経て踏み出した「曲がる錫」の自社ブランド化

ローカルグローススタジオは、『地方企業にスタートアップのような成長を』というテーマで、コンテンツ発信と支援サービスを展開しています。この記事では、実践的なビジネスノウハウを、できるだけわかりやすくお伝えしていきます。

今回取り上げるのは、富山県高岡市の鋳物メーカー、株式会社能作(のうさく)です。1916年(大正5年)に高岡銅器の地で創業し、長らく仏具・茶道具・花器のOEM(相手先ブランド製造)下請けを担ってきた老舗です。この能作が、福井から婿養子として入った1人の男性によってメーカー企業へと姿を変え、社員数15倍・売上10倍・年間来場者数13万人規模の産業観光拠点へと成長しました。2023年には長女の能作千春氏が5代目社長を継ぎ、承継は次の代へ進んでいます。

会社を買って伸ばす経営者は、対象の会社を選べます。家業を継ぐ経営者は選べません。与えられた会社の中の何を変え、何を守るかの見極めがすべてになります。能作は、その見極めの手順が本人の言葉と数字で細かく残っている会社です。家業を継いだ方、これから継ぐ方に向けた事例として読み解きます。

この記事の要約

先にストーリーの全体像です。1984年、新聞社のカメラマンだった能作克治氏が、婿養子として社員8人の下請け鋳物工場に入りました。18年間職人として現場に立ち、2002年に社長へ就任します。2001年に出した初の自社商品、真鍮の卓上ベルは3か月で30個しか売れませんでしたが、販売員の一言で風鈴に変えると同じ期間で3,000個売れ、ここから「顧客の声で変える」経営が始まりました。2003年には他産地と競合しない錫100%の食器を実用化し、「曲がる」性質を特徴に捉え直したKAGOシリーズはニューヨーク近代美術館のデザインストアにも並びます。2017年、売上13億円の年に16億円をかけて産業観光型の新社屋を建設し、工場見学者は年間13万人へ。売上は克治氏の約20年で1.3億円から18億円になりました。2023年には長女の千春氏が5代目社長を継ぎ、錫婚式や海外展開へと事業を広げています。

このストーリーから持ち帰れる観点は、次の8つです。それぞれ本文の章で事実を確認し、最後の6章で説明し直します。

1. 18年かけて、全工程を自分の手で通してから継いだ(1章)

2. 転機は3回とも、売り場と顧客の一言から始まっている(2章)

3. 集客を広告費ではなく、残り続ける場所に投じている(3章)

4. 営業せず来てもらう形にしてから、定価が通っている(4章)

5. 守るものを先に決めたうえで、商品と売り方を変えている(5章)

6. 代替わりと同時に、下請けからメーカーへ事業を定義し直している(全体)

7. 数字に出ない効果を、経営者自身の言葉で説明している(全体)

8. 縮む産地の中で取り合わず、市場の外から人を連れてきている(全体)

各章の末尾に、ローカルグローススタジオの分析と「この事例から考えられること」をまとめています。

参考資料一覧

数字で見る能作の転換

時点数字出典
2000年頃社員8人の下請け工場克治氏の発言(ダイヤモンド・オンライン連載)
克治氏の約20年売上1.3億円→18億円能作 公式プレスリリース(2023年5月)
2017年売上13億円の年に、16億円かけて新社屋を建設ダイヤモンド・オンライン連載
2018年度売上約15億円(社長就任時の10倍以上)、社員160人同上
2019年工場見学者 年間12万人(2002年比300倍)同上
2025年売上10年間で2倍超、見学者 年間13万人特許庁 知財功労賞 表彰資料
2025年売上22.7億円、従業員 連結253人富山県企業情報・公式サイト

この間、業界全体は縮んでいます。伝統工芸の業界はこの約40年で生産額・従事者数ともにピーク時の5分の1以下に減った、と能作自身がプレスリリースで説明しています。高岡市統計書でも、高岡銅器(国内の銅器の9割以上を生産する産地です)の販売額は2006年度の136億円から2024年度は104億円へ、約4分の3になりました。産地全体が縮むなかで、能作は売上10倍・社員15倍・見学者300倍になっています。産地の他社がどう推移したかは今回の資料では確認できていないため、この記事では他社との比較ではなく、能作単体の推移として扱います。

1. 代替わりの前夜、下請け業のままでは続かないという気づき

「ちゃんと勉強せんかったら、この仕事よ」

能作の現会長・能作克治氏は、もともと福井県の出身で、大阪芸術大学で写真を学び、大手新聞社の報道カメラマンを3年務めていました。結婚を機に妻の実家である能作に1984年、27歳で入社し、ここから18年間、1200度の熱風と向き合う現場で鋳造の職人として腕を磨いていきます。

能作は当時、仏具・茶道具・花器をつくる素材メーカー、つまり高岡銅器のサプライチェーン上の下請けという立ち位置でした。克治氏がブランドを持つメーカーへの転換を志した契機として、たびたび語られているのが、入社から2、3年目ごろのある工場見学のエピソードです。地元の親子が見学に来た際、母親は作業する克治氏のそばで息子にこう言いました。

「よく見なさい。ちゃんと勉強しないと、あのおじさんみたいになるわよ」

下請けの製造現場は、地域社会から「勉強しないとここで働くことになる仕事」と見られていました。克治氏は連載で「地元の人が鋳物職人の地位を低くみなし、伝統産業を軽んじている現状に、唖然としました」と振り返り、この日に「鋳物職人の地位を絶対に取り戻す」と誓ったと書いています。この風景がきっかけとなり、克治氏は、いつか自分たちの名前で売れる製品を持ちたいと思うようになります。その後、現場で職人として技術を磨きながら、商品企画の機会をうかがうという長い助走期間が続きました。

当時の能作は、下請けの仕事がすべて元請けから来るため、自社で何かを売るためのマーケティング機能を持っていませんでした。これは、地方の製造業の多くが今も抱えている課題と地続きです。

「よそ者であること」を強みに変えた

家業を継ぐ人の多くは、社内でも地域でも「後継ぎ」として見られることに悩みます。克治氏は逆でした。富山では県外から来た人を「旅の人」と呼びます。克治氏はリクルートの取材でこう語っています。

「高岡にやってきた当初、私は地域の人たちから”旅の人”と呼ばれていました。(中略)高岡のことも鋳物のことも良く知らないやつだと見られていた。でも、そのおかげで私も素直に周囲のみなさんに教えを乞えたし、同業の職人さんたちも私のことをライバルとすら思わず『しょうがないな…』と技術のことを教えてくれたんです」

米国の製造業グループ、ダナハーの事例記事で、創業者に製造の経歴がなかったことを元幹部が「天の恵み」と呼んでいた話を書きました。外から来た人は、業界の常識を知らないぶん、「変えてはいけない」とされてきたものを疑えます。能作は、その「外の目」が婿養子という形で家業に入った事例です。

下請けのまま、まず技術で信頼を得た

克治氏が最初に取り組んだのは、新規事業ではなく下請け仕事の品質でした。当時の能作は、製品の傷が多く「問屋から嫌がられていました」と本人が書いています。そこから同業者にも教えを請いながら鋳物づくりに明け暮れ、入社10年が経つ頃には問屋から「能作は、高岡で1、2を争う鋳物屋である」「能作につくれないものはない」と評価されるようになりました。

この時期のことを、克治氏は社長名鑑のインタビューでこう語っています。

「得(救い)だったのは、同じ鋳物屋さんがね、僕に『お前な、旅の人とかって言われるやろ』『はい』と言うと、『じゃあ、これ誰にも言うなよ』って言って、いろんなことを教えてくれるわけですよ。(中略)うちの技術というのは、実は高岡中の職人さんに教わった技術なんですね。だから恩返しをしたいんです。地域に」

後の章で見る「同業と戦わない」「技術を隠さない」は、この負い目と恩の上に立っています。

克治氏は入社後、すぐに会社を変え始めたわけではありません。エヌエヌ生命の取材記事は、先代(義父の佳伸氏)が克治氏に言い続けた言葉を伝えています。

「人と違うことをするな。人と違うことをしたいなら、社長になってからやれ」

商品開発をやりたかった克治氏は、この言葉の下で18年待ちました。ただし、待っている間に何をしたかが重要です。同記事によれば、克治氏は現場の製造から経理、出荷、取引先回りまで、自分の領域を着々と広げていきました。1985年には「将来、能作をこう変えたい」という構想を「ノーサクプラン」としてノートにまとめ、義父に提出しています。変える準備を紙にまとめながら、日々の仕事では下請けの品質を磨く、という二段構えが18年続きました。そして2002年に社長へ就任したとき、こう言い切れる状態でした。

「すべて私の手中にありました」

ローカルグローススタジオの分析:戦略を「上から」決め直した承継

私たちは間違ってはいけない戦略の順番|ビジョン→事業→商品→営業→組織という記事で、戦略には階層があり、手元のリソース(組織)から考え始めると現状維持型の戦略に落ちる、と書きました。承継企業で特に起きやすいのが、「今いる職人と設備で何ができるか」という組織起点の発想です。

能作の18年は、この順番を上から決め直した期間として読めます。まず「鋳物職人の地位を取り戻す」というビジョンがあり(工場見学の一言が起点です)、そこから「下請けからメーカーへ」という事業の再定義、「錫100%の生活用品」という商品、「営業せず来てもらう」という営業のかたち、最後に「会長=企画、社長=PR、工場長=現場」の組織が決まっています。後の章で見るとおり、錫100%への挑戦で職人が「こんなものできんぞ」と反発したとき、克治氏は組織の現実に合わせて商品を諦めるのではなく、自分で錫の鋳物を作って見せて「ほらできるやろ?」と返しています(エヌエヌ生命)。この場面からは、私たちが同じ記事で書いた「下位戦略からのフィードバックを受け入れすぎない」と同じ考えが読み取れます。

この事例から考えられること

照らし合わせてみる項目

  • 後継者(または自分)が経験してきた部門はどこまでか
  • 現場の主要な工程を、経営者が自分の手で動かした経験があるか
  • 変えたいと考えていることが、社内で読める形になっているか
  • 先代と後継者のあいだで、いつ何を渡すかを話しているか
  • 経営者が離れた場合に誰が引き継ぐかを決めているか

事例から読み取れること

1. 変革の前に、全工程を自分の手で通していた

克治氏が現場で担当したのは、製造、受注、経理、出荷、取引先回りでした。自社商品の開発に動いたのは、その後です。ここからは、18年という期間の長さよりも「変える前に全工程を通る」という順序のほうに意味があったのではないか、と読めます。自社に置き換えるなら、後継者が各工程を「説明できる」状態なのか「自分でやれる」状態なのかは、分けて考えられる部分かもしれません。

2. 本業の評価を上げてから、自社商品に進んでいる

克治氏は下請けとしての問屋の評価を上げたうえで、自社商品の開発に移りました。逆の順番だった場合にどうなったかは記録がないので分かりませんが、少なくともこの会社では、いまの商売の品質を上げることが先に来ています。

3. 構想を紙にして、先代に見せていた

1985年のノーサクプランがこれにあたります。頭の中にある構想は先代からは見えませんが、紙になったことで議論の対象になりました。このときは通らず、実現したのは十数年後です。すぐに採用されなかった提案が後から効いた例として読めます。

2. 何を変えたか、「曲がる錫」と直販

真鍮の風鈴、変化のスタートライン

能作のメーカー化を象徴する最初のヒット商品は、真鍮の風鈴でした。2001年、高岡市で開かれた勉強会で東京から来た講師に真鍮の茶道具を見せたことが縁で、東京・原宿の展示会への出展が決まります。そこで出品した真鍮の卓上ベルがセレクトショップのバイヤーの目に留まり、取り扱いが決まりました。ところが、結果は12店舗合わせて3か月で30個でした。克治氏は「日本のライフスタイルの中では、ベルを使う習慣がありません」と敗因を書いています。

転機は、ショップの販売員の一言でした。

「音色がとてもいいから、風鈴にしたらどうか」

ベルに短冊を付けて風鈴に変えたところ、1個4,000円の風鈴が3か月で3,000個売れました。能作にとって初めての、自社製品の手応えです。克治氏はこの経験をリクルートの取材でこう振り返っています。

「工場にこもって製造に専念してきた私が1人で考えるより、実際にお店でお客様に接している人の意見を聞くべきだ。そう気づいたんです」

「曲がる」を欠点ではなく特徴として再定義した

真鍮の風鈴の成功を受け、克治氏は2003年から本格的に自社製品の開発に踏み込みます。テーブルウェアや酒器の領域に商品を広げていく中で、純錫(錫100%)の鋳物の実用化へと踏み込むことになります。きっかけは、これも販売員の声でした。「もっと生活に身近なモノを扱いたい。食器はつくれますか」。得意の銅を使った食器は食品衛生法上の制約があり、無垢の美しさを活かせません。調べた先にあったのが錫でした。ただし他産地(大阪や鹿児島、海外ではシンガポールやマレーシア)は、柔らかい錫に他の金属を混ぜた合金で作っており、合金化が業界の定石でした。克治氏は連載でこう書いています。

「決して合金が悪いわけではありませんが、ものマネをしてしまうと、他産地に迷惑をかけてしまうかもしれません。そこで、合金ではなく、世界で類を見ない『錫100%』の食器をつくることにしたのです」

錫は柔らかく、純度100%にすると指の力でぐにゃりと曲がります。これを欠点として合金化するのが業界の定石でしたが、能作はその「曲がる」という性質を、欠点ではなく特徴として再定義しました。当初は欠点として克服しようとしてうまくいかず、突破口になったのは、長く組んできたデザイナーの小泉誠氏の一言でした。

「やわらかいのだから、硬くしなくていい」「曲がるなら、曲げてしまえばいい」

こうして生まれたのが、平らな籠(かご)を手で曲げて形を作る「KAGO」シリーズです。2008年にはハンドベルが、2017年にはKAGOが、ニューヨーク近代美術館(MoMA)デザインストアの販売品に認定されました。売れなかったベルの技術が、風鈴になり、食器になり、世界に出ました。

ここで、代替わり経営者の気づきを2つに整理できます。

第1は、下請け仕事の延長線にある「素材としての技術」を、お客様が直接手に取れる「完成品」として作り直したことです。鋳物の技術を信仰用具から日常用具へ、業務用から家庭用へとずらしたことで、まったく別の顧客層に届く商品に変わりました。ただし前提があります。素材の欠点を特徴に捉え直す前提として、素材の性質を知り尽くしている状態があったということです。克治氏はアイデアを生む7つのルールの2番目に「素材の性質を知り尽くす」を挙げています。18年の職人経験が、ここで効いています。

第2は、「外部デザイナーとの協業」を制度として取り込んだことです。能作には小泉誠氏、小野里奈氏など複数のデザイナーが関わっており、自社のものづくり技術を外部の発想と掛け合わせる仕組みが根づいていきました。克治氏は連載で、伝統技術ディレクターの立川裕大氏、デザイナーの小泉誠氏、グラフィックデザイナーの水野佳史氏、建築家の広谷純弘氏と「2014年頃から月1、2回のミーティングを開き、『これまで見たことがないものを』の精神で、みんなでわくわくしながらつくった」と語っています。新社屋も、ロゴも、什器も、この座組の産物です。企画やデザインの人材を自社で抱えるのは、この規模の会社には容易ではありません。能作はそれを内製化ではなく、協業の形で解決しています。協業は、持ち込まれるのを待つだけでもありません。富山県のデザインワークショップから「いいデザインがあるが、安定した鋳造が難しい」と持ち込まれた小野里奈氏のデザイン(仙台の七夕飾りがモチーフ)を、克治氏は「プレスですかというくらい、鋳造ではできないと思うようなデザイン」と評しつつ、「うちならできますよ」と製品化しています(アクティオのインタビュー)。

量産は技術開発で応え、医療にも広げた

量産の壁も「できないと言わない」で越えています。注文が増えて生産が追いつかなくなったとき、能作は砂型に代わるシリコーン鋳造という製法を自社開発しました。克治氏はこの技術で「ものづくり大賞をもらいました」と語っています(2013年に「第5回ものづくり日本大賞 経済産業大臣賞」を受賞)。克治氏によれば、いまはこの製法による製品が全体の6割ほどを占め、国内なら2か月で数千個の注文にも応えられます。「半年待ってくれ、1年待ってくれと言っていたら、いつまでも同じ売り上げしか確保できない」というのが本人の説明です。

用途の広がりも、顧客の一言から生まれています。展示会に来た「能作ファン」という脳外科医が、こう言いました。

「錫は、とてもおもしろい金属ですね。『曲がる』からではなくて、『曲げても元に戻らない』からです。形状を変えて使用することができるので、医療機器としての可能性もありそうですね」

能作は2014年に医療機器製造業の登録をし、指の関節症の患者向けの固定リング「ヘバーデン リング」(2021年グッドデザイン賞)や手術用の器具を開発しました。ベルが風鈴になったときと同じ進み方です。自分では思いつけない用途を顧客が教え、能作はそれを「できないと言わない」で受けています。

ローカルグローススタジオの分析:1つの技術が、5つの便益に展開されている

インサイトを理解するで紹介した構文「ユーザーは〇〇という課題を今は△で解決しているが、本当は××の方がいい」に、能作の転機を当てはめてみます。風鈴は「ベルが欲しい」ではなく、販売員の言葉を借りれば「スタイリッシュで音が綺麗」な道具を暮らしに置きたい、という欲求への回答でした。ベルという用途では30個、同じものが風鈴という用途になった途端3,000個です。錫の食器は「金属の食器が欲しい」の奥にある「無垢の金属の美しさを、めっきで隠さず日常の食卓で使いたい」への回答です。後の章で見る錫婚式も、工場見学に「結婚10年の記念に来た」という夫婦が多いという観察から、「本当は節目を形に残したい」という声にならない欲求を拾っています。能作の「顧客の声で変える」は、言われたことをそのまま作るのではなく、毎回この一段深い捉え直しを挟んでいます。

もう1つ、ターゲットと便益を5-10パターンに整理するで書いた「サービスは複数の属性への複数の価値を内包している」という構造が、能作にきれいに現れています。同じ鋳造技術が、少なくとも5つのWho/What/独自性に展開されています。

WhoWhat(提供価値)独自性
贈答品を選ぶ富山県民地元の誇りを贈れる県を代表する高岡のブランド
デザイン好きの生活者曲げて使う道具の面白さと無垢の美しさ世界で類を見ない錫100%
観光客・親子見て、作って、食べる体験実物の鋳造現場そのもの
結婚10年目の夫婦節目を家族で祝う時間錫の産地でしかできない錫婚式
医療現場患者ごとに形を調整できる器具曲げても元に戻らない金属

下請け時代の能作の便益は「問屋向けの生地供給」の1パターンだけでした。技術は同じまま、便益の数を増やしたことが売上10倍の中身です。自社の技術や商品を同じ表の形式で書き出してみると、まだ売っていない相手が見えてくるかもしれません。

この事例から考えられること

1. 転機の起点は、いずれも売り場と使い手の一言だった

風鈴、錫の食器、医療機器という3つの転機は、作り手ではなく売り場側と使い手側の言葉から始まっています。上の分析で構文に当てはめたとおり、顧客自身が言語化していない欲求が、現場との会話のなかで形になった例と読めます。自社に置き換えると、その会話が起きる場が定期的にあるかどうかは、確認してみる価値がありそうです。

2. 技術を、製品名ではなく性質で捉えていた

能作が持っていたのは「仏具を作る技術」ではなく、音の鳴りがよい真鍮を鋳造する技術、柔らかい金属を精密に鋳造する技術でした。前者の定義のままでは、風鈴も食器も出てきません。自社の設備や技術を製品名を外して書き出してみると、同じように転用先の候補が見えてくる可能性があります。

3. 小さな依頼を受け続けた結果が、技術として残っている

克治氏は「単品1個ですができますか」と言われたときに「はい、やれます」と答え続けたと語っています。個別の依頼は小さくても、そのたびに技術が社内に残り、次の依頼につながっていました。すべての依頼を受けることが常に正解かどうかは別の話ですが、この会社ではこの積み重ねが技術の幅になっています。

4. 企画とデザインは、内製ではなく協業で取り込んでいる

小泉誠氏、小野里奈氏ら外部デザイナーとの継続的な協業が、商品開発の中心にありました。企画人材を一気に内製化するのが難しい規模で、外部との協業を続ける形を選んでいます。協業の窓口を社内に置くという形は、他の地方企業でも取りうる選択肢かもしれません。

3. 工場見学13万人、「観光になる工場」を逆算で設計する

売上13億円の年に、16億円を投資した

能作は1990年から工場見学を無料で受け入れています。産業観光という言葉が広がるずっと前、社員7、8人の頃からで、案内役は克治氏本人でした。本人は目的を4つ挙げています。ものづくりの魅力の発信と技術の継承、県内観光のハブになること、産業観光に取り組む企業が増えるように轍(わだち)をつけること、そして子どもたちに地域の素晴らしさを伝えることです。

「僕にとって地域創生とは、『子どもたちを、変えていくこと』『子どもたちが、自分の故郷を誇れるようにしていくこと』だと考えています」

「勉強しないと、あのおじさんみたいになるわよ」への返答が、これです。実際、小学生のときに工場見学に来た女性が、後に職人として能作に入社しています。彼女は克治氏の著書の中で「子どもの頃は見学する側でしたが、今は見学される側なので、身が引き締まる思いですね」と語っています。

この延長線上にあるのが、2017年4月にオープンした新本社・新工場です。総工費約16億円。前年度の売上は13億円です。この新社屋には次の機能が併設されています。

  • 直営の「FACTORY SHOP」(自社製品の販売)
  • 鋳物製作体験「NOUSAKU LAB」
  • 工場見学「FACTORY TOUR」
  • カフェレストラン「IMONO KITCHEN」
  • 富山県内観光情報を発信する「TOYAMA DOORS」

企業秘密だった約2,500種の木型はエントランスに公開され、撮影スポットになっています。なお、この投資は無謀な賭けではありません。連載の対談で「よく銀行はお金を貸してくれましたね」と問われた克治氏は、「それは普段から、銀行の人たちとよくコミュニケーションをとっているからだと思います」と答えています。1984年の入社初年度に赤字だった後、2年目から一度も赤字に落ちていない黒字体質(本人談)が土台にあります。

結果は数字に出ました。旧社屋最後の2016年に年間約1万人だった見学者は、オープンから4か月弱で4万2,000人を超え(日経ビジネス2017年9月)、2018年は10万人超、2019年には年間12万人(月1万人ペース)に達しました。その後も年間13万人前後の来場者があり、高岡観光の主要スポットの1つに位置づけられています。見学者の約7割が県外、約7割が女性です。高岡市の観光名所としては、国宝・瑞龍寺(年間約17万人)に次ぐ規模で、高岡大仏(約10万人)を上回りました。新社屋は2019年にグッドデザイン賞を受賞し、同年に「産業観光まちづくり大賞」の経済産業大臣賞も受けています(日本観光振興協会)。

「単なる売り上げよりも、目に見えない効果がすごく大きい」

ここで見るべきは、来場者数そのものよりも、能作が「観光」をマーケティングチャネルとして設計し直したという点です。新社屋の意義を、産業観光の運営を担った千春氏は中川政七商店の取材でこう総括しています。

「単なる売り上げよりも、目に見えない効果がすごく大きいと思いました。毎日さまざまなお客様に来ていただけることで、今までにはない出会いがありますし、職人たちの意識も変化し、日々の仕事を超えてスタッフ同士の結束もより強くなりました」

工場見学を起点にした産業観光は、能作に3つの効果をもたらしました。

1. 顧客体験の最大化: 自社製品を実際の鋳造現場で見て触れることで、購買意欲が上がる

2. 採用ブランディング: 「3K職場」として見向きもされなかった会社に、職人希望の若者が全国から集まるようになり、職人は約60人、社員の平均年齢は32歳になりました。従業員160人のうち80人が女性、管理職の4割が女性です(いずれも2019年時点)

3. 職人の動機づけ: 見学者の存在が職人のプライドを刺激し、現場の主体性が高まる

3つ目の変化は、一直線ではありませんでした。千春氏によれば、常に見られながら働くことへの職人の反応は、1年目は「気が散る」「危ない」と「モチベーションになる」が半々でした。そこでイベントに職人を巻き込み続けたところ、2年目頃から慣れ、いまでは職人が自主的に工場を清掃し、絵を描いてお客様をもてなし、「こうしたらお客さんが喜ぶのでは」と企画を出すようになったといいます(BECOSのインタビュー)。

現場発の改善も生まれています。手作りの風鈴にはわずかな傷のB級品が毎日出ますが、「もったいない、何とか活かせないか」というスタッフの相談を受けて、見学ルートの出口にB級品の風鈴回廊を設けました。製造工程を見終えた見学者ほど「連れて帰ってあげたい」と手に取るそうです。TOYAMA DOORSも同じ思想で、能作から周辺観光地への送客インセンティブは一切ないまま、「来た人を独り占めせず地域に還元する」ために運営されています。千春氏は、この観光カードが縁で他業種とのコラボやマルシェの声がけがしやすくなり、「金銭的な利益ではないにしろ、確実に能作にもプラスになって返ってきています」と説明しています。

能作は、マーケティングを広告・SNS・チラシといった発信に限定せず、工場そのものを顧客と出会う場に変えました。これは、下請けからメーカーへ転換したからこそ取れた選択でした。

問屋を飛ばさない。技術も隠さない

能作の直販には、はっきりした決めごとがあります。直販するのは自社オリジナル商品だけで、従来の仏具・茶道具・花器はいまも問屋に卸し続けているのです。売り先の小売店に高岡の問屋との取引があれば、オリジナル商品でも問屋を経由させます。克治氏の説明です。

「問屋を飛び越えると、地域内の分業制が成り立たなくなり、問屋だけでなく、着色や彫金を行っている会社にも迷惑をかけてしまいます」

この設計の結果は、数字に出ています。社長名鑑のインタビューで克治氏は、問屋経由の昔ながらの仕事はいまも続けたうえで、「昔100%だった仕事が、今現在4%ぐらいしかない状態になっちゃった。残りの96%は新しく開拓していった自社商品」と語っています。問屋の仕事を減らして直販に切り替えたのではなく、問屋の仕事はそのままに、新しい市場を上に積んだ結果の比率です。周囲から「問屋の壁を壊してくれた」と言われたときも、「僕は『地域の伝統産業を壊さず、地域全体で成長したい』と思っているので、『問屋の壁を壊した』という表現は適切ではありません。むしろ、問屋の邪魔をしないように、『避けてきた』つもりです」と訂正しています。

技術も隠しません。同業他社から「錫の食器をつくりたい」と相談されれば教え、社内から「マネされるのではないか」と声が上がると、こう返してきました。

「特許が侵害されていなければ、マネされてもかまわない。(中略)マネされたなら、マネした人よりも優れた商品を開発すればいい」

ただし全部を開いているわけではありません。特許庁の表彰資料は、能作が「目で見てわかる技術は特許、形が珍しいものは意匠を取得し、見えない技術はノウハウとして秘匿する」というオープン・クローズの使い分けをしていると評価しています。開くものと守るものを分けたうえでの公開です。

ローカルグローススタジオの分析:集客を費用ではなく資産で作る構造

能作の集客には、はっきりした特徴があります。本人たちの取材記事に広告の話はほとんど登場せず、語られるのは工場見学の年13万人とメディア露出、「営業スタッフ」と呼ばれる富山県民の贈答・口コミ、そして断らずに増やした取扱店800軒です。

この構成を読み解くと、私たちが顧客獲得コストを下げるには「ストック>フロー」を意識しように書いた考え方と同じ考えが表れています。広告(フロー)は止めれば効果が消え、コストが発生し続けます。一方、16億円の社屋は一度建てれば毎年13万人を集め続ける集客資産(ストック)になっています。1990年から35年続けてきた無料見学も、積み上げ型です。初年度のPLでは重い投資が、年を追うごとに1人あたりの獲得コストを下げていきます。「単なる売り上げよりも、目に見えない効果が大きい」という言葉は、この構造を経営者の実感で言ったものだと私たちは解釈しています。

市場の選び方も、私たちが地方企業やスタートアップに共通する、低リソース・ブランド無しの戦わない戦略に書いた考え方と同じです。同じ記事の核は、競合と同じ土俵での消耗戦を避け、競争のない市場を自分で作ることでした。「錫100%」を読み解くと、同じ考えが表れています。克治氏自身が「後発で単なる物マネになるのは嫌だし、他の産地を脅かすのも本意ではない」と語ったとおり、既存の錫産地(大阪・鹿児島)の合金とは市場が分かれ、正面衝突しません。さらにバリューチェーン上でも、問屋・着色・彫金という産地の分業を壊さず、補完関係のまま自社だけ新市場を上に積みました。一見競合に見える相手を壊さずパートナーのままにしておく、という点で、同じ記事に書いた考え方と重なる事例です。

この事例から考えられること

1. 見せる取り組みは、社員8人の工場から始まっている

現在の年13万人という数字の起点は、16億円の社屋ではなく、社員8人の工場で克治氏が自分で案内した無料見学でした。能作の連載には、他部署の社員が案内役を担うために自社と産地のことを学ぶようになったという証言も残っています。見せる前提を持つことが、現場の側にも変化を生んでいた例として読めます。

2. 無料の見学が、買い物と指名につながっている

工場見学は無料ですが、見学者はショップとカフェで買い物をし、贈答品に能作を選ぶという流れができています。上の分析で見た、ストック型の集客の仕組みにあたります。見せることに使った時間が何件の指名につながったかは、この会社の資料からは分かりませんが、投資を続ける判断の材料になっている様子がうかがえます。

3. 直販を始めるときに、壊さない線を先に引いていた

「問屋経由の商品はそのまま」「取引のある小売には問屋を通す」という線が、直販の開始前に引かれています。上の分析で見たとおり、正面から取り合わずに新しい販路と商品で伸びる道を選んだ形です。地域で商売を続ける会社にとって、新しいチャネルを作る前に既存の取引の何を守るかを整理しておくことには、意味があるのかもしれません。

4. 開くものと守るものを、3つに分けている

能作の整理は、見えるものは特許や意匠で権利化し、見えないものは秘匿し、それ以外は公開するという形でした。全部隠すか全部見せるかの二択ではありません。自社の技術やノウハウを同じ3つに仕分けてみると、公開してよい範囲がはっきりする可能性があります。

4. 「営業しない経営」とは何か

克治氏の経営スタイルとして取り上げられることが多いのが、「営業しない、口を出さない、気にしない」というフレーズです(リクルートの取材記事の見出しにもなっています)。強い言葉に聞こえるので、丁寧に分解しておきます。

  • 「営業しない」: プッシュ型の法人営業ではなく、メディア露出と工場見学を起点にした、来てもらう引き合いを軸に置く
  • 「口を出さない」: 商品企画・デザイン・店舗運営を担う社員や外部デザイナーに、経営側が細部まで口を出さない。千春氏も新社屋の設計について「こちらからはあまり『こうして、ああして』と言わず、設計者やデザイナーの方が楽しくやりやすい環境をつくった」と説明しています
  • 「気にしない」: 競合や業界慣習を起点にせず、自社の能力起点で意思決定する

下請け業時代の能作には、これらは1つも当てはまっていませんでした。克治氏は、自社製品を持ったことで、はじめてこの3つのスタイルが取れる立場になった、とも言えます。能作の場合、マーケティングと組織運営の自由度は、ビジネスモデルそのものの転換と同時に生まれています。

実際の売り方には決めごとがあります。能作は自社商品を「定価」で販売し、値引きをしません。克治氏の説明です。

「こちらから営業をかけた場合は立場が弱くなりますから、相手の言い値や要求を突っぱねるのは難しい。(中略)しかし、『こられる方に対応する』場合は、交渉の主導権はこちらが握っているので、値引き交渉はされにくくなります」

営業部はいまもありません。日経ビジネスの取材によれば、営業をしない理由は2つあります。1つは、自社で営業をかけると、これまで取引のあった問屋に迷惑をかける可能性があること。もう1つは、販路をあえて絞らないことです。希少性を出すために卸し先を限定する企業は多いのですが、能作は逆で、どんな小さな店でも「能作の商品を取り扱いたい」と言われたら断らず、どの店にも同じ価格で卸します。取扱店は800軒に増え、克治氏は「ブランディングを考えずに取扱店を増やしてきたら、他社に『能作はブランドだよね』といわれるようになった」と振り返っています。露出の総量が、結果としてブランドを作りました。

販路開拓の中心は年2、3回の展示会出展で、「素材や技術を正直に見せ」て、来た相手に対応します。日本橋三越も松屋銀座もパレスホテル東京も、先方からの出店依頼でした。克治氏は「能作に営業スタッフがいるとすれば、それは『富山県の人たち』です」と語っています。県民が贈答品に能作を選び、口コミが県外に広がっていきます。実際、都道府県別の売上は東京ではなく富山が一番大きい、と克治氏はアクティオの取材で明かしています。

克治氏の著書のタイトルは『社員15倍!見学者300倍!踊る町工場』(ダイヤモンド社、2019年)。書名のとおり、克治氏が経営に踏み込んだ時点で約10人だった社員は2019年時点で160人、見学者は年間300人規模だったものが12万人規模へと変化しています。

この事例から考えられること

1. 定価が通るまでに、来てもらう理由を先に作っている

能作が定価販売を続けられている背景には、取引先の側から声がかかる状態があります。技術の見せ方、実績の発信、展示会への出展が、その状態を作りました。値引きの有無が商品力だけで決まるわけではないという読み方ができます。

2. 露出を絞らずに、ブランドと呼ばれる状態を作っている

販路を絞って希少性を出す型とは逆に、能作は断らず、同一価格で、800軒まで取扱店を増やしました。多くの場所で見かけることが信頼につながる商材と、限られた場所にしかないことが価値になる商材があるとすれば、能作は前者を選んだ例として読めます。

5. 結果と次の代替わり、娘の5代目社長と「世界へ」

計画的に準備され、危機で覚悟が決まった承継

2023年3月、能作はもう1つの代替わりを経験します。克治氏が代表取締役会長に退き、長女の能作千春氏が5代目代表取締役社長に就任しました。千春氏は神戸学院大学を卒業後、アパレル通販誌の編集者を経て2010年(公式プロフィールでは2011年)に能作へ入社。物流課長、2016年に取締役、2018年に専務取締役を経て、社長へ就任しました。

もともと家業を継ぐ気はなく、本人はBECOSのインタビューで「家業を継ぐ気は100%ありませんでした」と語っています。転機は神戸で編集者をしていた時代に、憧れていた先輩が雑貨屋で能作の錫のトレーを見つけてきて、社内で「かっこいいね、おしゃれだね」と話題になったことでした。田舎の工場だと思っていた実家の製品が外でそう語られることに驚き、家業に興味を持ち直します。父が新聞社で3年働いてから能作に入ったのにならい、自分も編集者3年で区切りをつけて入社しました。

入社後の動き方は父と同じです。まず鋳物の製造現場に入り(「会社の一員として受け入れてもらうために」と本人が説明しています)、次に取り組んだのが受発注体制の整備でした。当時の能作は急激に出荷が増えているのに、注文を書き留めるノートすらなく、口頭で「風鈴10個くらい作って」と伝える状態でした。千春氏は受注フォーマットを作り、出荷の仕組みと梱包室を整え、物流課長を務めます。そして2016年9月、新社屋オープンの半年前に「産業観光部」を3人で立ち上げ、部長として産業観光事業を作りました。つまり、4代目(克治氏)が「メーカー化と産業観光」のラインを敷き、5代目(千春氏)がそのラインを引き受けて完成させ、社長交代に至っているという、計画的な代替わりが行われたことになります。

覚悟が決まった瞬間は、危機でした。2019年に克治氏が突然体調を崩し、半年間入院したときのことを、千春氏はエヌエヌ生命の取材でこう語っています。

「もしかしたら明日、社長がいなくなるかもしれない。従業員の数も増えているし、販路も広がっている。誰が会社を守っていくか、継承していくかと考えた時に『私しかおらん』と思えたのです」

代役の重さは相当なものでした。高岡市の取材記事によれば、社長不在となった3日後には全国から数千人の市長らが集まる場でのパネルディスカッションが控え、その月の予定の半分は社長が登壇するはずだった講演で埋まっていました。父の病状は社内にも社外にも明かせず、不安を吐露できる相手は、婿入りして工場長を務める夫だけだったといいます(日経ビジネスの本人手記)。

そして現在の経営は、3人の分業です。北日本新聞の対談での千春氏の説明です。

「父はデザインやものづくりの才能、行動力があります。私はPRやマーケティングが得意。夫は周りからの信頼が厚く、社内を束ねる力がある。3人でやっているからこそ生まれるものがたくさんあり、今後もこの形で進めていきます」

夫の和也氏は、千春氏との結婚を機に職人として婿入りし、現在は工場長です。克治氏と同じ入り方をした人が、現場を束ねています。

「工場を開く」を「人生に関わる」へ広げた

千春氏が2019年に立ち上げた錫婚式(すずこんしき)は、結婚10周年を家族だけで祝うセレモニーです。錫にちなんだ式、錫の器での食事、記念品づくりのワークショップで構成され、2023年6月時点で150組が挙式しました。約8割が県外からで、家族旅行を兼ねて高岡に来ます。

一度作った企画も、顧客の反応で作り直しています。当初は結婚式のように親族や友人に披露する形で設計しましたが、挙式した夫婦から「友人に披露し祝ってもらうのは恥ずかしかった」という声が出ました。そこでコンセプトを「外に披露する式」から「家族と向き合う式」へ根本から変えています(千春氏の著書『つなぐ』)。ベルを風鈴に変えた父と、同じ手順です。

企画のターゲット設定にも決まりがあります。千春氏は「新しい企画を考えるときは、常に『サザエさん』をターゲットにしている」と語っています。子どもがいて、祖父母もいる三世代が楽しめる企画なら、子どもから大人まで幅広く届く、という考え方です。一方で、単に集客につながるだけの企画は「高岡の400年の歴史や職人の想いを知ってもらう」という軸から外れれば構想段階でボツにする、とも明言しています。旅行業の登録を取って始めた宿泊付きプラン「想い旅」(井波の宿Bed and Craftとの共同企画)も、産業観光で集まった来場者の「どこに泊まればいいか」という声への回答でした。

販売チャネルの判断も一貫しています。コロナ禍でECが約2.5倍に伸びたとき、能作はECマーケティングを数か月でやめ、実店舗を3店増やしました。千春氏は「見た目や重さ、質感などを直接伝えることで、私たちの製品の価値を実感してもらえると思っているからです」と説明しています(北日本新聞対談)。工場も店も式も、「実物に触れる場」に投資するという一つの方針で貫かれています。

「これからは世界を目指す」

5代目の千春氏は「これからは世界を目指す」と発言しています。能作は2020年2月、台湾のLOTA Industrialとの合弁会社「NOUSAKU Precious Metals」を設立し、プラチナや金などの貴金属を使ったインテリア・アート製品を中華圏で展開する計画を発表しました。2022年には台北にブランドコンセプトストアを開いています。2018年9月期の総売上は約17億円、うち海外売上は約4,000万円という規模で(日本経済新聞)、海外売上比率の引き上げが次世代の中心テーマになっています。

現在地も本人たちが具体的に語っています。千春氏は「錫の器が冷たくて気持ちいいというのは日本独特の感覚のようで、中華圏では全然響かない」と苦戦を認めたうえで、現地デザイナーと組み、台湾で縁起物とされるりんご・梨・パイナップルをモチーフにしたアロマディフューザーを作ったら反応が良かった、と手応えを語っています(ヒトコトMagazine)。国内で効いた「顧客の声で変える」を、市場ごとにやり直している段階です。

社内の課題認識も具体的です。千春氏は従業員が約180人に増えた現状を「100人の壁とはよく言ったもので、100人を超えると今までと同じやり方では統率が難しい」と語り、これまで行ってこなかった社員教育の整備を次の仕事に挙げています。同時に、「『売上、売上』と言わないところは変えたくないし、変える必要がない」と、父の代から変えない一線も引いています(BECOSのインタビュー)。スローガンは「人と、地域と、能作」。克治氏は「将来的にもし千春が能作をブライダルの会社にしても、僕は何も言わない」「残すために常に形を変えていくのは当然だ」とまで言い切っています。守るのは業態ではなく、素材と高岡と歴史という軸だ、という整理です。

6. ローカルグローススタジオの視点:事業転換と成長づくりの作法

冒頭に挙げた8つの観点を、本文で確認した事実で説明し直します。

1. 18年かけて、全工程を自分の手で通してから継いだ

18年の職人経験と「すべて私の手中にありました」という状態が、社長就任後の全改革の土台でした。職人の反発を越えたのも、正論ではなく「ほらできるやろ?」と自分で作って見せる力です。千春氏も、製造現場、受発注、物流、産業観光、広報と現場を経てから継いでいます。

2. 転機は3回とも、売り場と顧客の一言から始まっている

風鈴も、錫の食器も、医療機器も、錫婚式の作り直しも、全部が売り場と顧客の一言から始まっています。いずれも社内の会議ではなく、社外との接点で生まれています。

3. 集客を広告費ではなく、残り続ける場所に投じている

能作は広告予算を膨らませる方向ではなく、新社屋・工場見学・カフェ・観光案内という「来てもらう仕掛け」に投資しました。広告は止めれば効果が消えますが、16億円の社屋と35年続けてきた無料見学は毎年13万人を集めています。自社の拠点そのものが、人を集める仕組みになっている例です。

4. 営業せず来てもらう形にしてから、定価が通っている

「営業せず、値引きせず、来る相手に対応する」という形が成立するまでに、技術と発信を磨く時間がありました。断らず同一価格で増やした取扱店800軒と定価販売は、その後に成立しています。売り込む側と訪ねられる側では、価格の決まり方が変わるという読み方ができます。

5. 守るものを先に決めたうえで、商品と売り方を変えている

能作は問屋との関係と高岡の分業を守ると決めたうえで、商品と売り方を変えました。変えないものを先に決めていたことが、地域と社内の受け止め方に影響していた可能性があります。そして守り方は世代をまたいでいます。克治氏は会長に退き、千春氏が産業観光部の立ち上げから社長へというキャリアパスをたどり、千春氏の代でも教育や組織づくりという形で次の代へ渡す準備が始まっています。代替わりが1回のイベントではなく、世代をまたぐ仕組みづくりとして進んでいる例と読めます。

6. 代替わりと同時に、下請けからメーカーへ事業を定義し直している

克治氏は18年間の職人経験を経て、下請けからメーカーへという事業の定義変更を伴う代替わりに踏み込みました。株式や資産を渡す事業承継の前に、何を承継して何を継がないかを決める段階があった、と整理できます。

7. 数字に出ない効果を、経営者自身の言葉で説明している

「単なる売り上げよりも、目に見えない効果がすごく大きい」という言葉は、短期の数字で判断を求められる場面で、長期の投資を説明する言葉になります。長期の投資は初年度の損益計算書には表れにくく、それを説明する言葉が経営者の側に用意されていた例として読めます。

8. 縮む産地の中で取り合わず、市場の外から人を連れてきている

高岡銅器の販売額は20年弱で4分の3になりました。そのなかで能作は、工場見学によって「鋳物を買う予定のなかった人」を年13万人連れてきています。産地の中でシェアを取り合う方向ではなく、市場の外から人が入ってくる入口を作った例です。見せる場、体験、別用途という3つが、その入口になっていました。

本事例から見える経営とマーケティングの学び

能作の物語は、地方企業が抱える「下請け構造」「人材不足」「販路の固さ」を、代替わりというタイミングを使ってまとめて解いていった事例として読めます。重要なのは、克治氏が職人として18年間現場に立ち、技術と組織の地力を理解した上で経営に踏み込んだことです。ブランドやリソースが薄い状態から成長を作ろうとする経営者にとって、能作の歩みは「何を変え、何を残すか」を考える材料になります。

千春氏は対談でこう語っています。「伝統はずっとつないでいかなければいけないし、守っていく必要があります。能作の根っこであり、土壌であり、だからこそ今の能作がある」。変え続けた会社の5代目が、いちばん強く「守る」を語っています。何を変えてもよい、ただし根っこである地域と歴史は守る。この順番が、能作の記録からいちばん強く読み取れる部分です。

「ビジネス知の機会格差をなくす」という私たちのミッションに向けて、これからも実践的で価値ある情報を発信していきます。この記事の内容について、さらに詳しく知りたい方は、ぜひご連絡ください。