先進企業に学ぶ(経営参画編) – 飛騨産業株式会社|「最後の始末をしてくれ」と頼まれた男が、木の節を主役にして100年蔵を立て直すまで

ローカルグローススタジオは、『地方企業にスタートアップのような成長を』というテーマで、コンテンツ発信と支援サービスを展開しています。この記事では、実践的なビジネスノウハウを、できるだけわかりやすくお伝えしていきます。

今回取り上げるのは、岐阜県高山市で1920年(大正9年)に創業した飛騨産業株式会社です。100年以上にわたり「飛騨の匠」の系譜を引く木工家具メーカーで、輸入家具の波で廃業寸前まで追い込まれた状態から、地元企業の経営者だった岡田贊三氏(2000年社長就任、現在は代表取締役会長)、そして元ユニクロの岡田明子氏(2021年12月に代表取締役社長就任)へと、2世代にわたる経営を経てきました。従業員は439名(2026年1月5日現在)です。

この記事は、創業家以外の人が経営に入って会社を作り替えた事例を扱う「経営参画編」の1本です。外から来た人が、その会社の何を資産と見なし、何を捨てるかという判断の中身を読み解きます。

この記事の要約

先にストーリーの全体像です。飛騨産業の前身は1920年に設立された中央木工株式会社で、飛騨の匠の伝統と、ウィーン発の曲木技術という異なる2つの系譜を1つにまとめた会社でした。1990年代の輸入家具の急増で経営は悪化し、1990年代末には廃業も視野に入る状態になります。役員たちから「社長になって、最後の始末をしてくれ」と頼まれたのが、地元の岡田贊三氏でした。断るつもりで最後の会議に出た岡田氏は、ある役員の「すべてを任せるから好きにしてくれ」という一言で気持ちが変わり、その場で引き受けます。2001年、木材の節を欠点ではなく主役として扱う「森のことば」シリーズを発表。続いて、家具材には軟らかすぎるとされてきたスギを圧縮する技術に取り組み、長年蓄えてきた曲木のノウハウを応用して実現させました。この圧縮スギを使った「HIDA」シリーズは2005年のミラノサローネに出品されます。2014年には自前の職人養成校「飛騨職人学舎」を開校。2021年10月に企業ロゴを「HIDA」へ刷新し、同年12月に岡田明子氏が社長に就任しました。

このストーリーから持ち帰れる観点は、次の6つです。それぞれ本文の章で事実を確認し、最後の6章で説明し直します。

1. 業界が欠点と呼ぶものを、主役に書き換えている(2章)

2. すでに持っている技術を、別の用途につなぎ直している(3章)

3. 企画とデザインを、内製ではなく協業で取り込んでいる(3章)

4. 人を採るのではなく、育てる場所を自社で持っている(4章)

5. 会社を畳むために呼ばれた人が、会社を作り替えた(全体)

6. 依頼した相手から問い返されたことが、商品の芯になった(全体)

各章の末尾に、ローカルグローススタジオの分析と「この事例から考えられること」をまとめています。

参考資料一覧

数字で見る飛騨産業

時点数字出典
1920年8月中央木工株式会社として設立(1923年に飛騨木工、1945年に飛騨産業へ商号変更)公式サイト 沿革
1952年「キツツキマーク」を商標として採用公式サイト 沿革
1974年→2017年飛騨地方の木工家具メーカーが76社から25社へ岡田贊三氏(幻冬舎連載)
1990年→2010年全国の家具・装備品製造業の出荷額が約3兆3,900億円から約1兆3,660億円へ岡田贊三氏(経産省調べを引用)
1993年→2013年岐阜県の家具業界の従業員が約1万1,000人から6,000人程度へ岡田贊三氏(幻冬舎連載)
2000年岡田贊三氏が代表取締役社長に就任(1943年高山市生まれ、1968年立命館大学卒)公式サイト
2001年「森のことば」シリーズを発表公式サイト 沿革
2003年〜2004年飛騨杉研究開発協同組合を設立(公式沿革は2004年、本人講演は2003年で不一致)公式沿革、講演録
2004年11月1,000トンと200トンの圧縮プレスを工場に導入公開報道
2005年圧縮スギの「HIDA」シリーズをミラノサローネに出品公式サイト 沿革
2003年〜2008年エンツォ・マーリ氏との協業で50アイテム超を開発公式サイト HIDA通信
2014年飛騨職人学舎を開校。2020年に家具職種で技能五輪初の金賞公式サイト
2015年資本金を3億円から1億円へ減資公式サイト 沿革
2020年8月10日創業100周年公式サイト 沿革
2021年10月1日企業ロゴを「HIDA」へ刷新公式サイト 沿革
2021年12月17日岡田明子氏が代表取締役社長、岡田贊三氏が代表取締役会長に就任公式サイト、中日新聞
2022年10月「HIDA高山店 森と暮らしの編集室」をリニューアル開業公式サイト 沿革
2024年10月19日「遊朴館 HIDA GALLERY」第一弾リニューアルオープン公式サイト、PR TIMES
2025年10月4日遊朴館 HIDA GALLERY 全館グランドオープン公式サイト、PR TIMES
2026年1月5日従業員439名(男性300名、女性139名)、資本金1億円公式サイト 会社概要
2026年5月13日岡田贊三氏が旭日中綬章を受章(伝達式)公式サイト、PR TIMES

なお、飛騨産業の売上高は資料によって大きく食い違います(本人の講演と著者プロフィールでは2014年前後で年間50億円、岐阜県の公式サイトでは2021年9月期に5億3,925万円)。一桁のずれがあり、どちらが正確かをこの記事では判定できないため、売上の数字は使いません。

1. 「最後の始末をしてくれ」と頼まれた

飛騨の匠と、ウィーンの曲木が出会った1920年

飛騨産業の前身は、1920年(大正9年)8月に岐阜県高山町(現在の高山市)で設立された中央木工株式会社です。この年、飛騨高山に2人の職人が訪れ、西欧ではブナ材を曲げて家具を作っているという技術を伝えました。地元の有志たちが資金を出し合い、町の伝統である「飛騨の匠」(飛鳥時代から続く木工技能集団)の技と、西洋の曲木技術を組み合わせる会社が生まれます。1923年に飛騨木工株式会社、1945年に飛騨産業株式会社へと商号を変えました。

曲げ木の技術そのものは、ドイツ生まれの家具職人ミヒャエル・トーネット(1796-1871)がウィーンを拠点に1842年に特許を取得した工法で、世界の椅子の量産化を変えた革新です。日本には明治末期に最初の曲木家具が輸入され、農商務省の営林技師である佐藤五郎氏が1906年から1909年にかけてドイツとオーストリアに留学し、曲木の機械を持ち帰った経緯があります。

奈良時代に都へ駆り出されていた「飛騨の匠」の流れと、19世紀のウィーン発の量産曲木という、まったく異なる2つの系譜を1つの会社にまとめたのが1920年でした。その後、戦中戦後の建材需要を経て、経済成長期にはダイニングセットや椅子、ソファなどを作る木工家具メーカーへと姿を変えていきます。1952年からは、米国の家具小物ブランドから譲り受けた「キツツキマーク」を商標として採用し、長く「キツツキマークの飛騨産業」として知られてきました。

業界全体が縮んでいた

1990年代の輸入家具の急増は、飛騨産業に強い逆風となります。業界全体の縮み方を、岡田贊三氏はこう説明しています。

「木製家具業界を例にとると、1974年当時、飛騨地方に76社もあった木工家具メーカーは現在、25社にまで減っています」

全国の家具・装備品製造業の出荷額は、1990年の約3兆3,900億円から2010年には約1兆3,660億円へ。岐阜県の家具業界の従業員も、1993年の約1万1,000人から2013年には6,000人程度まで減りました。

飛騨産業自身も、1990年代末には多額の借入を抱え、廃業も視野に入る状態に追い込まれていました。

断るつもりで出た会議で、引き受けてしまった

岡田贊三氏は1943年に高山市で生まれ、1968年に立命館大学を卒業。地元企業の経営者を経て、2000年に飛騨産業の社長に就任しました。その経緯を、本人が語っています。

「私の生まれは荒物屋で、子供の頃から飛騨産業は地域が誇る会社でした。注文を受けた品をリヤカーに積んで運んでいく度に『大きな会社だなあ』と見上げていたものです。また祖父が創業に関わっていたので、親近感もありました」

「30年ほど前に『社外監査役になってほしい』と言われた時は嬉しかったですよね。ただ、そこから10年の間に経営の状況がどんどん悪くなっていって、役員たちから『社長になって、最後の始末をしてくれ』と言われた」

「最後の始末だなんて。本当にたまらなかったです。断るつもりで最後の会議に出ました。ところが、ある役員から『すべてを任せるから好きにしてくれ』と言われた時、なんだか嬉しくなって、気持ちが昂ったんです。断るつもりだったのに、思わず『やります!』と言ってしまって(笑)」

会社を畳むための社長として頼まれ、白紙委任という条件で引き受けたことが、この事例の出発点です。

「そこから再建するために、この20年、無我夢中で駆け抜けてきました。そしてようやく、水の底まで沈みかけていた会社が水面に顔を出した。私の役割はここまでです」

「私が飛騨産業に来てからの20年は、とにかく会社が生き残るための20年でした」

就任時の状態については、金額ではなく規模の変化で語られています。

「私が社長になった時、私の会社の売上は最盛期の半分程度に落ち込んでいました」

なお、就任時の借入額や債務超過額を示す一次資料は公開されていません。この記事でも金額は書きません。

この事例から考えられること

照らし合わせてみる項目

  • 業界全体の事業所数と出荷額の推移を、数字で把握しているか
  • 経営を引き受ける条件(権限の範囲)を、書面で確認しているか
  • 自社の売上を、最盛期と比べているか
  • 外から人を招くときに、何を任せるかを決めているか
  • 会社の創業の経緯を、社員が説明できるか

事例から読み取れること

1. 業界の縮小が、数字で把握されている

76社が25社へ、出荷額が3分の1へ。この規模の縮小のなかでは、現状維持が緩やかな撤退と同義になります。業界統計と自社の数字を並べて見る必要が、ここから読み取れます。

2. 権限の範囲が、引き受けの決め手になっている

「すべてを任せるから好きにしてくれ」という一言が、岡田氏が引き受けた理由として語られています。何をどこまで任せるかが定まっていたことが、外から来た人が動ける条件になっていた可能性があります。

3. 創業の経緯が、会社の性格を説明している

飛騨の匠とウィーンの曲木という2つの系譜が出会ったという成り立ちが、そのまま会社の性格の説明になっています。創業の理由を社員が語れる状態にあるかどうかは、他の会社でも確かめられそうです。

2. 節は、その木が生きていた時間の記録である

現場での一問一答から始まった

家具業界の外から来た岡田氏が手を入れたのは、生産現場の見直しと、輸入家具と価格で競わないための商品開発でした。その象徴が、2001年に発表した「森のことば」シリーズです。

それまでの家具業界では、木材の節(ふし)は商品価値を下げる欠点として扱われ、節のない一枚板や合板に塗装をかける作り方が主流でした。飛騨産業はこの常識を反転させ、節を意匠の主役に据えます。

発想の出どころは、現場での会話でした。

「『それは節材です。カットしてみたら木材の中に節があって、使えないとわかったんです』職人は平然と答えます。私はこの説明を素直に受け入れることができませんでした」

「『それもわかるが、世の中自然志向ブームじゃないか。スーパーで売っている真っ直ぐなキュウリも露地で採れる曲がったキュウリも同じ味だといわれるだろ。真っ直ぐだから美味しいわけじゃないだろ。ならば木材には節があるのはあたり前だ。同じ木材なのに、なぜ節があったら家具に使えないんだ?』」

業界の内側にいれば疑わない前提を、外から来た人間が疑った場面です。本人はこの判断を、後にこう振り返っています。

「バブル崩壊後の大変厳しい状況の中で、素人のやけくその発想と言いますか、無駄にされていた『木の節を主役にした家具』を作ろうということで『森のことば』シリーズを発表したところ、これが大当たりをいたしまして、起死回生のシリーズになりました」

「森のことば」はデザイナーの佐々木敏光氏との協業で生まれ、後に飛騨産業の代表シリーズになりました。ダイニング、ソファ、収納、テーブルへと広がり、長く売れ続けています。岡田明子氏が経営の前面に出てからは、北米産のブラックウォルナットを使った「森のことばWalnut」シリーズへも展開されました。

ローカルグローススタジオの分析:商品を変えずに、意味づけを変えている

インサイトを理解する ~「本当は○○したい」をつかむ〜で、私たちは、表面的な要望ではなくその奥にある本音を捉えることが商品づくりの起点になると書きました。同時に、既存の常識を疑うところから発見が生まれるとも整理しています。

「森のことば」で変わったのは、木材そのものではありません。節のある木材は以前から工場にありました。変わったのは、それを何と呼ぶかです。「使えない材」を「その木が生きていた時間の記録」と呼び直し、原価を下げたのでも性能を上げたのでもなく、意味づけを組み替えただけで商品になりました。

同じ記事では、「なぜこの業界ではこのやり方が当たり前なのか」と問い直すことを挙げました。「なぜ節があったら家具に使えないんだ」という問いは、家具業界で育った人からは出にくい問いです。外から経営に入った人が最初に持つ違和感は、そのまま資産になることがあります。

この事例から考えられること

1. 現場が「使えない」と呼んでいたものが、主役になっている

節のある材は、業界では欠点として扱われてきました。捨てられていたものを手に取り、なぜ使えないのかを問い直した結果が、現在の主力です。現場の答えが業界の慣習に基づくものなら、疑う余地があります。

2. 業界の常識を知らない人の疑問が、起点になっている

外から来た人が最初に持つ疑問は、時間が経つと本人も忘れます。この事例では、その最初の違和感が商品開発の起点になりました。

3. 呼び名を変えたことで、価値の見え方が変わっている

同じ材でも、欠点としてではなく木が生きた証として説明することで、受け止め方が変わりました。説明の言葉を性能ではなく成り立ちの側から書くという方法です。

3. 曲木の技術を、スギの圧縮に転用する

自社の技術が、別の課題を解く鍵だった

「森のことば」と並ぶもう1つの転換が、国産スギを圧縮加工した家具シリーズ「HIDA」です。

スギは日本の人工林面積の約4割を占める基幹樹種でありながら、軟らかすぎて家具材には不向きとされてきました。岡田氏はここに取り組みます。

「『木の節を無駄にしない』という思考から、次に私は『国産材の杉を使ってみたいなぁ』と、そんな思いを持つようになりました。杉の木を、圧縮することによって普通の効用ある木と同じくらい強度のある木にすることができるということがわかりました。そこに、私どもが得意とする曲げ木の技術を応用しながら、完成させて参りました」

技術の接続点を示したのは、岐阜大学の棚橋光彦教授の助言でした。

「『岡田社長のところには曲木の技術があるじゃないですか。あれは内側を圧縮して固定するから曲がっているのです。あの技術を表面に使えば、圧縮は可能なはずですよ』」

「この言葉は目からウロコでした。ずっと前から培ってきた曲木のノウハウが、新しい技術に活かせるかもしれないなんて!」

1920年の創業時に持ち込まれた曲木の技術が、80年後に別の課題を解く鍵になった形です。地元の森林組合や製材所など5社と協同組合「飛騨杉研究開発」を設立し(公式の沿革では2004年、本人の講演では2003年としており一致しません)、2004年11月には工場に1,000トンと200トンの圧縮プレスを導入しました。

「なぜ豊かな自然を破壊してまで新しい製品をつくるのか」

この技術を世界に出す過程で、飛騨産業はイタリアの工業デザイナー、エンツォ・マーリ氏と協業します。ただし、その始まりは順調ではありませんでした。

岐阜県のオリベ想創塾が2003年秋に主催した高山でのマーリの講演会で、氏の思想に共感した当時の社長(現会長)の岡田は、「私たちが気づいていない日本の美を杉で表現してほしい」と家具のデザインを依頼しました。しかしながらマーリからの返答は「なぜ豊かな自然を破壊してまで新しい製品をつくるのか?」という問いかけでした。

── 飛騨産業公式サイト HIDA通信「エンツォ・マーリが取り組む100万の1万倍もの日本の杉の木」

依頼した相手から、新しい製品を作ること自体を問われました。この問いを経て、マーリ氏は最終的にこう位置づけました。

「杉を活かすことが人々の生活にとって倫理的に正しいアクションであるならば、この杉に備わる”節”にこそ正真正銘の選り抜きのブランドに値する価値があるのではないだろうか」

工場を見たマーリ氏の言葉も残っています。

「工場では有能な200名もの職人が働いています。もはや大都市では失われてしまった偉大な日本文化の魂が、今なお彼らの心の中に深く染み透っています」

協業は2003年から2008年まで続き、50アイテム超が開発されました。圧縮スギの「HIDA」シリーズは2005年のミラノサローネに出品されています。なお、飛騨産業は世界初の圧縮スギ家具と説明していますが、これは自社の発表であり、第三者機関による検証を示す資料は公開されていません。

デザイナーとの協業は、その後も制度として続きます。佐々木敏光氏、柳宗理氏、エンツォ・マーリ氏、川上元美氏、隈研吾氏と組み、2022年からは海外のデザイナーと組む「KOYORI」というブランドも始まり、2026年もミラノサローネへ新作を出しています。

ローカルグローススタジオの分析:自社の技術を、素材ではなく原理で言い直している

私たちは間違ってはいけない戦略の順番|ビジョン→事業→商品→営業→組織という記事で、事業をどう定義するかが商品や営業の前に来ると書きました。手元の商品から考え始めると、既存の延長線しか出てこないためです。

飛騨産業が持っていたのは「ブナ材を曲げる技術」でした。この定義のままなら、スギとは無関係です。ところが「内側を圧縮して固定する技術」と言い直した瞬間、スギの硬化という別の課題につながりました。棚橋教授の助言が効いたのは、飛騨産業の技術を素材の名前ではなく原理の言葉で捉えたからです。

同記事では、内製と外部活用を柔軟に使い分けるという考え方も書きました。飛騨産業は、技術の開発は自社と地元の組合で担い、その技術を何に使うかというデザインの部分は外部の専門家と組んでいます。企画とデザインは社内で人を育てるのに時間がかかる機能ですが、ここを20年以上にわたって協業で埋めてきました。

この事例から考えられること

1. 技術を、素材名ではなく原理で捉え直している

「ブナを曲げられる」ではなく「内側を圧縮して固定できる」と言い換えたことで、使える対象が広がりました。自社の得意な工程を原理の言葉にしてみると、同じような広がりが見えるかもしれません。

2. 転換点が、大学との接点から生まれている

圧縮技術の転換点になったのは大学教授の一言でした。地元の国公立大学に産学連携の窓口があることは、他の地域でも同じです。

3. デザインを、内製ではなく協業で取り込んでいる

企画とデザインは、社内で人を育てるのに時間がかかる機能です。飛騨産業は外部と組む形を選びました。窓口となる担当を社内に置く形が、この会社では機能しています。

4. 職人を採るのではなく、育てる学校を持つ

2014年、飛騨産業は自前の職人養成校「飛騨職人学舎」を開校しました。2年制の全寮制で、入学金と授業料は無料、月額8万円(年額96万円)の奨学金が支給されます。在学中はスマートフォンの使用禁止、アルコール禁止、寮内での恋愛禁止という規律が敷かれ、1年目は手加工、2年目は機械加工と家具製造を学びます。卒業後は飛騨産業の社員として、現場での実務2年を経て一人前の職人になります。

発案の経緯も語られています。

「そもそも職人学舎のアイディアがどこから生まれたかと言いますと、神奈川県横浜市で『秋山木工』という木工会社を営む、すごい職人のオッサンがおりまして、彼は『日本で本当の、一流の職人を育てるのが私の使命だ』と言って『秋山学校』というのをつくっているんですね。彼が『本当の職人は飛騨でつくるべきだろう。飛騨で職人学校をつくろうよ!』というようなことを言ってくれまして、私も乗りやすいタイプなので、『そうだなぁ!じゃあやろう!』とすぐにその気になりました」

目的は、自社の人手ではなく業界の将来に置かれています。

「このあたりで今日のテーマである、我々は『職人をどう育てていくか』というお話を進めていきたいと思います。今から5年前に『飛騨職人学舎』という職人養成校を発足いたしました。相撲部屋みたいに寝食をともにしながら、腕を鍛えて人間性を磨く。そこで生まれる職人たちの若い技術力を、間も無く創業100年を迎える飛騨産業の『次なる100年』を目指す足場としたい」

成果も出ています。2020年には技能五輪全国大会の家具職種で初の金賞を受賞し、以降も毎年入賞を続けています。

短期で人を確保するなら、即戦力を中途で採るほうが速い判断です。それでも自前の学校を持ったのは、業界全体で人材が枯渇するという長い時間軸の課題認識があったためです。

ローカルグローススタジオの分析:育てる場所そのものが、効き続ける資産になる

顧客獲得コストを下げるには「ストック>フロー」を意識しようで、私たちは、止めれば消えるフロー型の施策と、一度作れば効き続けるストック型の資産を分けて考えるという考え方を書きました。予算の限られる企業ほど、ストック型の比重を上げる意味が大きくなります。

飛騨職人学舎を読み解くと、私たちが記事に書いたストック型の考えと同じ考えが、採用に表れています。求人広告は出稿を止めれば効果が消えますが、養成校は続く限り毎年人を送り出します。しかも、2年の教育と2年の実務を経て一人前になるという設計は、入ってから辞めるまでの期間を長くする方向にも働きます。

同記事では、ストック型は効果が出るまで時間がかかるとも書きました。2014年に開校し、技能五輪で金賞が出たのが2020年です。6年かかっています。人材の育成は、施設の集客よりもさらに回収が遅い投資になります。

この事例から考えられること

1. 採用の課題を、業界全体の課題として捉え直している

自社で人が採れないのか、業界全体で人がいないのかで、打てる手が変わります。飛騨産業は後者だと判断し、採用ではなく育成の側に回りました。

2. 一人前になるまでの期間が、明示されている

2年の学校と2年の実務、合計4年という期間が先に示されています。長さを曖昧にせず出していることが、入る側の判断材料になっていた可能性があります。

3. 同業の先行事例から始まっている

飛騨職人学舎は、横浜の秋山木工の取り組みを知ったところから始まりました。同じ課題に取り組んでいる人が、別の地域に先にいた例です。

5. 100年目のリブランディングと、次の世代へ

「もったいない」という一言から始まった

2020年8月、飛騨産業は創業100周年を迎えます。その事業の1つが、社内外を巻き込んだリブランディングでした。

転機は2018年、中川政七商店の中川淳氏が飛騨産業を訪問したことだとされています。取り組みは多いのに世の中に伝わっておらず、もったいないという趣旨の指摘を受けたと伝えられていますが、この発言を掲載した『広報会議』2022年1月号の原文は今回確認できていないため、逐語では引用しません。

この一言が引き金となり、若手の中核メンバーがリブランディングの勉強会を始めます。TUGBOATの岡康道氏に相談し、コピーライターの秋山晶氏に「100年使えるコピーを書いてください」と依頼するという、社外との濃い協業期間が始まりました。全8回の議論を経て、2021年10月1日、「キツツキマーク」を品質保証のマークとして残しながら、企業ロゴ自体を「HIDA」へ刷新します。新しいロゴの「H」は組木、「I」は立木、「D」は曲木、「A」は住居や家具を表しています。

同時に、企業ビジョンとして「匠の心と技をもって、飛騨を木工の聖地とする」が策定され、4つの価値観として【人を想う】【時を継ぐ】【技を磨く】【森と歩む】が定義されました。

社長交代と、役割の違う2つの拠点

このリブランディングを社内で牽引したのが、当時常務取締役だった岡田明子氏です。1983年に高山市で生まれ、南山大学外国語学部を卒業後、2007年にユニクロへ入社。2011年に飛騨産業へ移り、生産現場、営業、海外事業を順に経験し、2016年に取締役、その後常務取締役を経て、2021年12月17日に代表取締役社長へ就任しました。岡田贊三氏は同日付で代表取締役会長に退いています。

なお、就任前の役職の推移については、公式の沿革と対談ページで年が食い違う箇所があり、専務取締役を経由したかどうかも一次資料で確認できません。この記事では確認できた範囲で書いています。

岡田明子氏が経営の前面に出てからの動きは、拠点の設計に集中しています。2022年10月、本社に隣接する「HIDA高山店 森と暮らしの編集室」をリニューアル開業しました。

  • HIDAの木工家具を扱う本社ショールーム
  • 森の恵みをテーマにしたクラフトマーケット
  • 隈研吾氏が空間と椅子をデザインし、グラフィックデザイナーの原研哉氏が「椅子と珈琲」と命名した自然派カフェ
  • 100年の歴史を紹介する展示コーナーとアウトレット

カフェでは、隈研吾氏がデザインした「クマヒダ」「シカ」などの椅子に実際に座れます。下呂市「緑の館」の自家焙煎豆を一杯ずつハンドドリップで提供する設計で、家具メーカーのショールームを、飛騨高山の観光体験に溶け込む場所へ広げました。

さらに2024年10月19日、高山市上一之町にある老舗ギャラリー「遊朴館」を引き継ぎ、「遊朴館 HIDA GALLERY」として第一弾のリニューアルオープン。2025年10月4日には、ギャラリー、ショップ、カフェ「CAFE&TABLE 工」を備えた複合施設として全館グランドオープンしました。空間設計は建築家の中村好文氏と家具デザイナーの小泉誠氏、監修に木工作家の三谷龍二氏が加わっています。

HIDA高山店が家具メーカーのショールームを担うのに対し、遊朴館は工芸と木工文化の発信拠点という役割分担になっています。

そのほか、2023年には奥飛騨の栃尾工場に温泉熱を使った木材乾燥の設備を新設し、スギの樹液や枝葉の成分を活用した植物活力液の開発、都市部の街路樹を木工製品に活用する自治体との連携協定など、「森と歩む」という価値観を具体化する取り組みが続いています。

2026年春には、岡田贊三氏が旭日中綬章を受章しました(伝達式は5月13日)。日本家具産業振興会の会長としての功績と、飛騨産業の再建、職人の育成、地域への貢献が産業振興の功労として評価されたものです。

ローカルグローススタジオの分析:拠点を、売る場所から見せる場所へ変えている

上の分析で触れたストック型の資産という考え方は、拠点にも当てはまります。店舗はその代表ですが、効き続けるかどうかは「そこへ来る理由」があるかに左右されます。

飛騨産業の拠点戦略は、この来る理由を増やす方向に動いています。HIDA高山店にはカフェと展示があり、家具を買う予定がない人も入れます。遊朴館は工芸文化の発信拠点として、家具メーカーの店とは別の理由で人を集めます。1つの拠点にすべてを詰め込むのではなく、役割の違う2つを持つ設計です。

同じ記事では、ストック型の効果が出るまでには時間がかかるとも書きました。2022年に1つ目を、2024年から2025年に2つ目を開き、間を置いて足していく形で投資も学習も分散されています。

この事例から考えられること

1. リブランディングの起点が、社外の一言だった

きっかけは、別の会社の経営者からの指摘でした。自社の取り組みが外からどう見えているかは社内では見えにくく、率直に話せる社外の関係が起点になった例です。

2. 変えるものと残すものを、同時に決めている

キツツキマークを品質保証のマークとして残し、企業ロゴだけを変えました。全部変えるのでも全部残すのでもない判断です。残すものを先に決めたことが、議論の進み方に影響していた可能性があります。

3. 拠点の役割が、分けて設計されている

売る場所と文化を見せる場所という2つの役割を、飛騨産業は別の拠点に分けています。1つの拠点に両方を詰め込む形とは、設計の考え方が違います。

6. ローカルグローススタジオの視点

冒頭に挙げた6つの観点を、本文で確認した事実で説明し直します。

1. 業界が欠点と呼ぶものを、主役に書き換えている

節のある木材は、業界では使えない材でした。それを「その木が生きていた時間の記録」と位置づけ直して「森のことば」が生まれています。変えたのは木材ではなく、その呼び名です。

2. すでに持っている技術を、別の用途につなぎ直している

1920年に持ち込まれた曲木の技術を「内側を圧縮して固定する技術」と言い直したことで、スギの硬化という別の課題につながりました。示したのは岐阜大学の教授の一言です。

3. 企画とデザインを、内製ではなく協業で取り込んでいる

佐々木敏光氏に始まり、柳宗理氏、エンツォ・マーリ氏、川上元美氏、隈研吾氏、そして2022年からのKOYORI。20年以上にわたって外部のデザイナーと組み続けています。

4. 人を採るのではなく、育てる場所を自社で持っている

2014年に飛騨職人学舎を開校し、2年の教育と2年の実務で一人前にする設計にしました。2020年には技能五輪の家具職種で初の金賞が出ています。

5. 会社を畳むために呼ばれた人が、会社を作り替えた

「最後の始末をしてくれ」という依頼を、白紙委任という条件で引き受けています。畳むために呼ばれた人が、業界の常識を疑う立場にいたことが結果を分けました。外から人を招くとき、その人が業界を知らないことは、必ずしも不利ではありません。

6. 依頼した相手から問い返されたことが、商品の芯になった

エンツォ・マーリ氏の「なぜ豊かな自然を破壊してまで新しい製品をつくるのか」という返答は、依頼を断るに近い問いでした。それを受け止めたうえで、スギを活かすことの意味を組み直したため、節を価値と見なす結論にたどり着いています。協業の相手に問い返されたときが、商品の芯を作る機会になります。

本事例から見える経営とマーケティングの学び

飛騨産業の物語は、地方の木工メーカーが「輸入家具との価格競争」「職人の枯渇」「知られていないこと」という3つの宿題を、創業家以外から来た経営者を起点に解いていった事例として読めます。重要なのは、岡田贊三氏が新しい設備や商品を外から持ち込んだのではなく、その会社が既に持っていたもの、つまり節のある木材と曲木の技術を、別の意味づけで使い直したことです。

そして、その打ち手を拠点と制度に広げたのが次の世代でした。100年の会社が2世代で作り替えられたことになります。ブランドやリソースが薄い状態から成長を作る経営者にとって、飛騨産業の歩みは「何を資産と見なすか」を考えるための学びになります。

「ビジネス知の機会格差をなくす」という私たちのミッションに向けて、これからも実践的で価値ある情報を発信していきます。この記事の内容について、さらに詳しく知りたい方は、ぜひご連絡ください。