先進企業に学ぶ(アトツギ編) – 株式会社古屋旅館|銀行員から継いだ26室の老舗が、「0.5歩遅れの革新」で採用と業務を作り替えるまで

ローカルグローススタジオは、『地方企業にスタートアップのような成長を』というテーマで、コンテンツ発信と支援サービスを展開しています。この記事では、実践的なビジネスノウハウを、できるだけわかりやすくお伝えしていきます。

今回取り上げるのは、静岡県熱海市の古屋旅館です。1806年(文化3年)創業、熱海でもっとも古い温泉宿の1つに数えられる客室26室の老舗で、平均単価は3万円前後です。17代目の内田宗一郎氏(1973年生まれ、早稲田大学法学部卒)は、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)から家業に戻ったという、同業界では珍しい経歴を持ちます。プレスリリースの継続配信で採用応募を約5倍にし、シフト作成をAIで2週間から1時間に短縮し、2025年2月には合資会社から株式会社へ組織変更しました。2026年6月には、小規模旅館の経営支援を行う「株式会社旅館経営総合研究所」も立ち上げています。

家業を継ぐ経営者は、引き継ぐ会社を選べません。与えられた会社の中の何を変え、何を守るかの見極めがすべてになります。古屋旅館の場合、その見極めの基準が「0.5歩遅れの革新」という言葉になっています。家業を継いだ方、これから継ぐ方に向けた事例として読み解きます。

この記事の要約

先にストーリーの全体像です。内田宗一郎氏は1997年に早稲田大学法学部を卒業し、同年4月に三和銀行へ入行しました。札幌支店で融資を担当していた時期に北海道拓殖銀行が破綻し、バブルの後始末を間近で見ています。担当していた中で最も小さいおにぎり屋の売上が、熱海の旅館ならトップクラスに相当する規模だったという経験も、後の経営観に影響しました。2002年4月に古屋旅館へ入社し、13年の助走を経て2015年7月に代表取締役へ就任します。200年以上続いた理由を「無理をしない」姿勢に見出し、それを「0.5歩遅れの革新」という言葉にしました。2022年(令和4年)を「デジタル元年」と位置づけ、予約データ入力のオンライン化で月間120時間、AIによるシフト作成で2週間から1時間へと業務時間を削減します。同時にPR TIMESでの情報発信を継続し、社員寮の竣工などを配信した結果、採用応募が約5倍になりました。社員寮は隣地を含め徒歩圏内に4軒37部屋を確保し、新卒初任給は28万円に引き上げています。2026年には、この経験を業界へ還元する会社を別に立ち上げました。

このストーリーから持ち帰れる観点は、次の8つです。それぞれ本文の章で事実を確認し、最後の6章で説明し直します。

1. 先端ではなく「0.5歩遅れ」を、意図して選んでいる(2章)

2. 業務の効率化を、顧客への価値と天秤にかけて決めている(3章)

3. 広報を、集客ではなく採用の手段として使っている(4章)

4. 客室数を増やさず、外側を作り直している(5章)

5. 業界の外で働いた経験で、自社が業界のどこにいるかを測っている(全体)

6. 発信が、経営者自身の記録としても機能している(全体)

7. 社員に対しても、顧客と同じ問いを立てている(全体)

8. マニュアルを、守らせるためではなく足すために作っている(全体)

各章の末尾に、ローカルグローススタジオの分析と「この事例から考えられること」をまとめています。

参考資料一覧

数字で見る古屋旅館

時点数字出典
1806年創業(文化3年)。内田家として17代続く公式サイト
1997年3月内田宗一郎氏が早稲田大学法学部を卒業。同年4月に三和銀行(現・三菱UFJ銀行)へ入行本人談、公開取材
2002年4月合資会社古屋旅館へ入社公開取材
2015年7月代表取締役に就任(入社から約13年の助走)公開取材
2021年9月熱海・伊東の経営者向けオンラインセミナーに登壇(参加約100人)熱海経済新聞
2022年(令和4年)「デジタル元年」と位置づけPR TIMES
2023年4月11日予約データ入力のオンライン化とアウトソーシング化で月間120時間の作業時間短縮PR TIMES
2023年6月ITmediaが「なぜ、新卒の応募者数が数倍に?」として同社のDXを特集ITmedia
2024年11月勤務シフト自動作成サービス「Shiftmation」を導入。シフト作成時間を約7〜8割削減PR TIMES、Shiftmation
2025年2月4日合資会社から株式会社古屋旅館へ組織変更PR TIMES
2026年6月4日法人版GeminiによるAI活用を開始。シフト作成は2週間から1時間へPR TIMES
2026年6月12日株式会社旅館経営総合研究所が事業開始PR TIMES
通年客室26室(うち露天風呂付20室)、平均単価3万円前後、社員寮は隣地含め徒歩圏内に4軒37部屋本人談、PR TIMES

1. 銀行員が見た、家業のスケール

内田宗一郎氏は1973年生まれ。1997年3月に早稲田大学法学部を卒業し、同年4月に三和銀行(現・三菱UFJ銀行)へ入行しました。札幌支店での融資担当が最初の配属です。

「札幌時代は融資担当で、100億円以下の融資を50社ほど担当していました。その後、東京本社でデリバティブの研修をしてから、日本橋の支店に移って新規融資を経験しました。新入行員として札幌支店に赴任した時期に地元の拓銀が破綻したのです。これは衝撃的で、初めて銀行にバブルのツケがまわってきたのを目の当たりにしました。その札幌時代、自分が担当していた融資先の中で一番小さい規模の会社が『おにぎり屋さん』だったのですが、それでも熱海の旅館でいえばトップクラスくらいの売上を誇っていました。(略)消費者から見れば1個百数十円のおにぎりをこれだけ売上げるというのはすごい事なのだなと、家業に戻ってから強く思いました」

自分の家業が業界の外から見るとどの程度の規模なのかを、先に比べてから戻っています。2002年4月に合資会社古屋旅館へ入社し、代表取締役に就任したのは2015年7月で、入社から約13年の助走期間がありました。

歴代の当主の多くが旅館業の現場で育ってきた中で、内田氏は都市銀行の勤務を経て家業に戻った最初の世代にあたります。複数の取材で、その経営姿勢は「家業ではなく企業を経営する」というポリシーとして紹介されています。コロナ期のインタビューでも、資金の確保と金融機関との信頼関係を経営の前提として語っており、銀行員時代に身につけた財務と説明責任の作法が、26室の旅館経営に持ち込まれています。

旅館という事業の性質についても、率直に語っています。

「旅館というのはきわめて競争が激しい世界です。先行投資が大きい割に利幅は薄い。お客様の嗜好・ニーズが変わるのは3年スパンとも言われています。その中でどのようにして200年以上続けてきたのだろうと考えていましたが、結果、それが『無理をしない』スタンスにあったことに気づきました」

自館の規模も、業界の中での位置づけとして語られています。

「部屋数は26部屋ですので、全国的なカテゴライズをすれば小規模旅館だとか中小規模旅館と呼ばれています。価格帯は平均で3万円前後、これは僕なりの言い方ですけど『アッパーミドルクラスの旅館』と呼んでいます」

この事例から考えられること

照らし合わせてみる項目

  • 自社の売上規模を、業界の外の会社とも比べたことがあるか
  • 200年、100年と続いた理由を、言葉にできているか
  • 自社の価格帯とポジションを、自分の言葉で説明できるか
  • 業界の常識を、業界の外の人に説明したことがあるか
  • 先行投資と利幅の関係を、数字で把握しているか

事例から読み取れること

1. 自社を、業界の外の会社と比べている

おにぎり屋の売上と旅館の売上を並べた経験が、後の判断の土台になっています。同業との比較だけでは、業界全体が沈んでいるときに気づきにくいという読み方ができます。

2. 続いてきた理由が、一文になっている

「無理をしない」という一文が、後の「0.5歩遅れの革新」につながっています。続いてきた理由が言葉になっているかどうかで、次の判断の拠り所が変わってきそうです。

3. 自社の位置に、自分で名前をつけている

「アッパーミドルクラスの旅館」という自称は、価格帯と規模の両方を表しています。業界の分類に乗るのではなく自分の言葉で位置を決めた例です。

2. 「0.5歩遅れの革新」という経営理念

古屋旅館の経営理念は、先端を行かないことを明示しています。

「古屋旅館は1806年創業ですが、もっと以前から旅館業を続けてきたと伝えられています。長い歴史の中で守り続けてこられたのは、当館が奇をてらわず、常に世間より『0.5歩』遅れて歩んできたことが理由だと私は考えています」

ただし、遅れることが目的ではありません。

「ただし、20年後はこのままの状態で良いはずがないという思いを当然抱いており、私自身は『常に世の中の流行には敏感であろう』としています。時代に先行はしないけれど、乗り遅れ過ぎないように、経営理念を『0.5歩遅れて歩む』とし、世の中の流れに沿って新しいものを取り入れていくことは、大変重要だと考えています」

流行には敏感でいながら、最初には飛びつきません。この考え方は、投資判断の基準としても使われています。

「投資においても無謀な挑戦ではなく、『0.5歩遅れの革新』という考え方を大切にし、現実的かつ確実に成果につながる判断を重視しています」

同じ姿勢を、別の言い方でも語っています。

「私が一人で200年続けてきたわけじゃないんですが、振り返ってみると当時、大胆な取り組みをしているということが言えるかなと思います。『変わらないために変わり続ける』ということがすごく好きで、まさに今してるのがそういったことなのかなというふうに思います」

歴代の当主も、その時々では大胆なことをしていた。だから続いている、という読み方です。

なお、変えた領域の1つがマーケティングでした。

「特にここ10年はマーケティングの分野ですごくWebの進化が激しかったので、例えばGoogleの広告ですとか、ターゲットを細分化して分析してこちらから打ち出していくということは、それまでやったことがなかった」

「私どものような規模の旅館にしては、本当にありえないぐらいの細さ、精緻さでデータをとって、日々運用しているという部分が、これも10年前と全く違うし、絶対に必要なことだというふうに思います」

26室の旅館が、規模に不釣り合いなほど細かくデータを取って運用しています。「0.5歩遅れ」で入れると決めた領域では、深く入るという判断です。

ローカルグローススタジオの分析:リソースが限られる会社の、先端との距離の取り方

地方企業やスタートアップに共通する、低リソース・ブランド無しの戦わない戦略で、私たちは資金も知名度も限られる企業が、大手と同じ土俵で戦わない方法を書きました。正面から競争するのではなく、条件の違いを前提に戦い方を選ぶという考え方です。

「0.5歩遅れの革新」を読み解くと、私たちが記事に書いた考え方と同じ考えが、時間の取り方として表れています。新しい仕組みを最初に導入する企業は、検証のコストを自社で負担します。26室の旅館にその余力はありません。一方で、遅れすぎれば人材も顧客も離れます。半歩遅れて、他社が検証した後に、確実に成果につながるものだけを入れる。この距離の取り方が、投資判断の基準になっています。

同じ記事では、戦略とはやらないことを決めることだとも書きました。古屋旅館が導入しているのは、シフト作成、予約データ入力、動画マニュアルといった、成果が時間で測れるものです。効果が読みにくい先端技術ではなく、削減時間が数字で出るところに絞っています。

この事例から考えられること

1. 新しい仕組みを入れる基準が、1つに決まっている

「現実的かつ確実に成果につながる」という基準があることで、検討する対象が絞られています。導入のたびに一から考える形とは、判断の速さが変わってきそうです。

2. 先行しない方針が、社内に明言されている

先端を追わないという方針が経営者から示されているため、現場が「遅れている」と受け取る形にはなっていません。方針として言われているかどうかの違いです。

3. 流行の把握と、導入の判断が分かれている

「流行には敏感であろう」と「時代に先行はしない」が両立しています。情報は集めるが入れるのは後、という分け方です。

3. デジタル元年から、AIによるシフト作成まで

施策を束で積み上げる

古屋旅館は2022年(令和4年)を「デジタル元年」と位置づけました。

「古屋旅館として令和4年をデジタル元年と位置付けています。これまでもデジタル化を進めてきましたが、より一層積極的な取り組みにより、働いて気持ちの良い職場環境を実現していきます」

導入された施策は、1点ものではなく業務全体を覆う束になっています。報道と公式発表から確認できる代表的なものは、次のとおりです。

  • クラウド型ビジネスチャットツールの全社導入
  • 動画マニュアル化(社長やベテラン社員の手順を、新人が同じ形で再現できるように整備)
  • ホテル管理システム(PMS)のリニューアル
  • 次世代型インターホンの導入
  • 従業員向けオンライン英会話学習の導入
  • 予約データ入力のオンライン化とアウトソーシング化(2023年4月、月間120時間の作業時間短縮)
  • 勤務シフト自動作成サービス「Shiftmation」の導入(2024年11月)

シフト作成の効果は、導入事例として公表されています。

「古屋旅館では、フロント、お客様係、サービス係、デシャップ、お皿洗い、調理場のスタッフのシフト作成にShiftmationを導入しています。(略)自動シフト作成機能によりシフト作成時間を約7〜8割削減でき、シフト作成者が本来の業務に集中できるようになったことで、旅館全体の業務効率も向上しています」

2026年6月には法人版Geminiの活用を始めました。このときのコメントに、一連の取り組みの位置づけが表れています。

「大企業から見れば、スタッフにアカウントを配ることやAIを使うことは、ニュースにもならない当たり前のことかもしれません。しかし、これまで動画マニュアルの活用や、AIによるシフト作成の劇的な短縮(2週間から1時間へ)など、一歩ずつ現場と経営のデジタル化を積み重ねてきた私たちにとって、今回のAI導入はそのすべての土台を繋ぐ『総仕上げ』のような意味を持っています。(略)テクノロジーの力で不慣れな書類仕事や言語の壁を取り払い、そこで生まれた時間を使って『目の前のお客様に最高の笑顔でおもてなしをする』という、人間にしかできない価値をさらに高めていくために、これからも全員で学びながら等身大の進化を続けてまいります」

効率化と、顧客への価値のトレードオフ

これらの投資の目的は、コスト削減単体ではありません。2021年9月に熱海・伊東の経営者向けに開かれたオンラインセミナー(参加約100人)で、内田氏は「人=従業員が最も大事」と語っています。人手不足が構造化している旅館業で、従業員の働きやすさを確保するための投資だという説明です。

一方で、効率化には迷いも語られています。

「スタッフの労働時間短縮のために効率化を図ろうとすると、どうしてもトレードオフで、別の面がマイナスになることが多いんです。それがお客様に関わることになる場合が多いので、お客様第一で考えると決断しにくいんですよね。それでもやらないといけないところに来ているんじゃないかなと思うんです」

実際に踏み込んだ判断の一つが、夕食時間の一本化でした。

「食事時間を選びたいお客様に迷惑をかけることになるので難しい決断でしたが、やってみると特にそれに対してご意見をいただくということもなく、そういうことならば…と受け入れていただいています」

この事例から考えられること

1. 効率化の効果が、削減時間で言える形になっている

月間120時間、2週間から1時間、7割から8割の削減。いずれも数字で語られています。効果が測れる業務から着手したことが、次の投資の判断をしやすくしていた可能性があります。

2. 顧客の利便が下がる変更で、想定した反発が起きなかった

夕食時間の一本化は、顧客からの意見がほとんどないまま受け入れられました。反発を予想していた変更が、実際には受け入れられることもある、という記録です。

3. 導入が、順番に積み上がっている

動画マニュアル、シフト作成の自動化、そして生成AI。順に積み上がったことで、後の導入が土台の上に乗る形になりました。

4. プレスリリースを続けたら、採用が変わった

古屋旅館は、PR TIMESでの配信を継続しています。その効果として語られているのが、集客ではなく採用です。ITmediaは2023年6月の記事を「なぜ、新卒の応募者数が数倍に? 熱海の老舗旅館が本気で取り組んだDXの全貌」という見出しで報じました。

「社員寮の竣工も、『古屋旅館に就職したい』と求職者から選ばれる価値が高まるという予測のもと、PR TIMESで配信。働きやすい職場づくりを積み重ねたこと、プレスリリースで発信し続けたこともあり、結果的に採用応募が約5倍に拡大しました。さらに、社員寮は滞在時間が非常に長いので、社員の定着率も大きく上昇しました」

「これまで当社が配信を続けているPR TIMESは、経営者の熱量や、宿の想いまで効果的に盛り込んで発信することができるうえに、さまざまなメディアに掲載される機会を増やすことができました」

継続のために守っていることも、3つ挙げられています。

「①継続できないことはしない、②優先順位をつける、③小さく提案して大きく与える、の3つを守っています。継続は大変ですが、そこは胆力と頑張り次第です」

発信を続ける動機についても語られています。

「今までの当館の配信を一覧で見ると『自分の通信簿』であると感じるようになりました。私にはこんなことをやりましたと報告する上司となる立場の人がいません。自分の仕事の記録を足跡のように残すことができることも、モチベーションにつながっています」

住む場所を、旅館側が用意する

採用の増加を受け止める側の整備も進んでいます。社員寮を順次拡張し、隣地を含めた徒歩圏内に4軒37部屋を確保しました。熱海という、移住も通勤もハードルのある立地で、新人の生活基盤を旅館側が用意した形です。

ただし、単に部屋数を増やしたわけではありません。

「隣地に素敵な女子寮を建設させていただきまして、『こんな寮に入れるんだったら、古屋旅館に就職したい』と思うような寮を作ろうと思って、デザイナーズアパートメントのようなものを建設いたしました」

「それによって実際ですね、『この寮に住みたいから古屋旅館に就職する』というような優秀な人材の方にもご応募いただいたりと、着実に効果が出ております」

住む場所があるという条件を満たすのではなく、その場所自体を応募の理由にしています。この発想の出どころも語られています。

「お客様と同じように、社員さんについてもですね、何を求めているのかということを会社として考えて、必要な環境を整えていくということが大事なのかなというふうに思います」

顧客に対してやっていることを、社員に対しても同じようにやる、という整理です。

マニュアルは、工夫を乗せるための土台

働きやすさの整備として挙げられているのが、動画マニュアルです。

「働きやすい環境作りのために、マニュアルの動画化というのを積極的に進めておりまして、お客様がご到着された瞬間から『ありがとうございます』とお帰りになる瞬間まで、基本的にはすべてを動画マニュアル化しております」

到着から見送りまで、すべての工程が動画になっています。ただし、目的は作業の標準化そのものではありません。

「これによって就職された方がですね、簡単に早く仕事を覚えられ、それによって今度は自分なりの工夫というのをマニュアルの上に付加することによって、さらに良い接客になるというような好循環が生まれていると思います」

マニュアルで覚える時間を短くし、空いた分を工夫に回してもらうという考え方です。マニュアルを「守らせるもの」ではなく「その上に足すための土台」として位置づけています。

採用で見ているのは、3つだけ

求める人材の条件も、3つに絞られています。

1つめは、接客が好きなことです。フロントや客室係だけでなく、調理場に入る人も同じだと説明されています。「その料理の先にはお客様がいるので」という理由です。

2つめは、人を喜ばせる仕事が好きなことです。

「常に『どうやったらお客さんが喜んでくれるんだろう』というのを考えて実行できる人、こういった人材を迎えたいと思います」

3つめが、素直なことです。その理由が具体的でした。

「常にトライ&エラーを繰り返すお仕事ですので、ご自分の考えを持つことが大切なんだが、それが仮に間違っていた場合には、すぐにそれを修正できる、これがあることによってですね、みるみる成長スピードが変わってまいります」

素直さを、性格の良さではなく、修正の速さとして定義しています。

なお、同社で働く社員の多くは未経験者です。老舗という言葉から想像される姿とのずれについて、若手のスタッフがこう語っています。

「老舗という風に求人媒体にたくさん載っているので、ベテランの方ばかりで、結構昔のやり方とかがすごい多いのかなって思っていたんですけど、結構若い方たちもいて、新しいこともたくさん取り入れているので、良い意味でギャップを感じるくらいです」

老舗という言葉は、求職者にとって安心の材料であると同時に、古さの予告でもあります。その予想を裏切ることが、入社後の評価につながっている例です。

処遇の改善も進めています。

「今年から当館では新卒採用者の初任給を28万円にしました。さらに、チップ収入や口コミで5点を取ることで得られるインセンティブ制度も設けています。宿泊業界でも遠からず新卒初任給が30万円の時代がくるし、そうしていかないといけないと思います」

ローカルグローススタジオの分析:続けてきた動画配信が、採用に効いている

顧客獲得コストを下げるには「ストック>フロー」を意識しようで、私たちは、広告のように出稿を止めれば効果が消えるフロー型と、一度作れば効き続けるストック型を分けて考えるという考え方を書きました。予算の限られる企業ほど、ストック型の比重を上げる意味が大きくなります。

古屋旅館のプレスリリースを読み解くと、私たちが記事に書いたストック型と同じ考えが表れています。1本ごとの反応で終わらず、配信の一覧そのものが会社の記録になり、求職者が会社を調べたときに読むものになります。応募が約5倍になったのは、社員寮という施策単体の効果ではなく、働きやすさへの取り組みを積み上げて発信し続けた結果だと本人が説明しています。

同記事では、ストック型は効果が出るまで時間がかかるとも書きました。だからこそ「継続できないことはしない」という基準が効きます。続けられない量の発信を始めると、途中で止まった時点で積み上げたものが止まります。無理のない量で続けるという判断が、ストックを積む前提になっています。

この事例から考えられること

1. 発信が、集客ではなく採用に効いている

社員寮や制度の話は、顧客よりも求職者に届きます。同じ発信でも、誰が読むかによって効き方が変わるという読み方ができます。

2. 続けられる量を、先に決めている

「継続できないことはしない」という方針のもとで発信が続いています。月に1本でも3年で36本の記録になり、量よりも頻度の設計が先に来ている形です。

3. 住む場所の整備が、採用の前提を変えている

徒歩圏内に37部屋という整備は、求人を出す前の段階に効く投資です。応募できるかどうかを決めていた条件そのものを組み替えた例と読めます。

5. 26室のまま、外側を作り直す

古屋旅館は、客室数を増やす方向には動いていません。動いているのは、その周辺です。

熱海銀座には菓子の専門店を開き、旅館の離れ棟には読書やワーケーションのためのスペースを設けました。温泉タンクを増設し、6万5000リットルを備蓄する体制も整えています。宿の規模を変えずに、周辺の設備と業態を足していく形です。

2025年2月4日には、合資会社から株式会社古屋旅館へ組織変更しました。

「この度、より柔軟な経営判断と業務の推進を目的に合同会社から株式会社へと組織変更をいたしました。(略)株式会社化により、今後さらに柔軟な経営判断を行うことで、お客様・従業員・地域にとって価値ある事業者としてのサービスを提供して参ります」

そして2026年6月12日、小規模旅館の経営支援を行う「株式会社旅館経営総合研究所」が事業を開始します。設立の理由には、業界の構造認識が示されています。

「日本の旅館は、地域文化と暮らしを支える重要な拠点である。一方で、10〜35室規模の旅館は、家族経営ほど機動的ではなく、大規模施設のような投資余力も持たない『死の谷』に置かれている。人材不足や固定費の高騰、情報格差により相談相手すら見つからず、良い宿ほど静かに姿を消しているのが現実である」

古屋旅館の26室は、まさにこの「死の谷」の範囲に入ります。自館が置かれている条件を、業界の課題として言語化した形です。

「私たちが目指しているのは、宿を一時的に良くすることではありません。宿が自ら強くなり、次の世代へ自然に受け継がれていく状態をつくることです。旅館は地域文化や風土、人とのつながりが凝縮された日本独自の資産です。しかし多くの旅館が人材不足や固定費高騰、後継者問題などの課題に直面しています。私たちは現場で培ってきた知見を標準化し、再現可能な形で提供することで、全国に『小さくても強い宿』を増やしていきたいと考えています」

「お客様からの支持を一定数頂ける旅館経営ができたからこそ、その経験を地域や業界全体に還元したいと考え、今年3月には『旅館経営総合研究所』を立ち上げました。自館だけでなく、全国の小規模旅館の再生や経営支援にも取り組み、日本の旅館文化を次世代へつないでいけるよう挑戦して参ります」

コロナ禍の経験も、この背景にあります。

「弊社ではリスク分散のためポートフォリオの見直しを昨年から開始。(略)旅館の場合、資金確保問題はイコールで金融機関との折衝問題となるはずだ。私は以前に都市銀行に勤めていたこともあり、金融機関との信頼関係がいかに重要であるかを扉の表と裏から見てきた。(略)苦しいが、その繰り返ししかない」

「困難な時期の経営は自身のメンタルとの戦いでもあるからだ」

なお、2026年7月には2年連続でJTBアワードを受賞しました。

「一度表彰されると審査のハードルが上がると聞いていたため、2年連続での受賞は難しいと思っていました」

ローカルグローススタジオの分析:自社の課題を、業界の課題として言い直している

ターゲットと便益を5-10パターンに整理するで、私たちは、誰に(Who)、何を(What)、どんな独自性で届けるかを相手ごとに具体的に整理するという考え方を書きました。対象が曖昧なままでは、提供する価値も曖昧になります。

旅館経営総合研究所の対象は「10〜35室規模の旅館」と明示されています。家族経営ほど身軽ではなく、大規模施設のような投資余力もない層。この定義は、自館の26室という条件から導かれています。自社が直面してきた課題を一般化したため、対象が具体的に決まりました。

同じ記事では、提供価値を「業務効率化」のような曖昧な言葉ではなく、相手の課題に対して具体的に書くとも書きました。人材不足、固定費の高騰、情報格差、後継者問題という、挙げられている課題は、古屋旅館が自館で取り組んできたことと重なります。動画マニュアル、シフト作成の自動化、プレスリリースによる採用改善は、そのまま提供できる知見になります。自社での実践が先にあり、その後に事業になった順番です。

この事例から考えられること

1. 自社の困りごとを、同じ規模の会社の問題として捉え直している

「26室の旅館の悩み」を「10室から35室規模の旅館に共通する問題」と言い直したことで、支援事業の対象が定まりました。自社だけの問題か同じ条件の会社に共通する問題かを分ける作業です。

2. 社内で解決した方法が、手順として残っている

再現可能な形で外へ提供するには、自社の手順が文書になっていることが前提になります。うまくいった取り組みが担当者の頭の中に留まっていないかどうかが、ここで問われます。

3. 自館で検証してから、外へ出している

自館で成果を出した後に支援事業を始めています。順番が逆であれば、提供する知見に実績が伴わなかったでしょう。

6. ローカルグローススタジオの視点

冒頭に挙げた8つの観点を、本文で確認した事実で説明し直します。

1. 先端ではなく「0.5歩遅れ」を、意図して選んでいる

「奇をてらわず、常に世間より0.5歩遅れて歩んできた」ことを、200年続いた理由として挙げています。ただし「常に世の中の流行には敏感であろう」とも語っており、情報収集と導入判断は分けています。投資基準も「現実的かつ確実に成果につながる」ことです。

2. 業務の効率化を、顧客への価値と天秤にかけて決めている

「効率化を図ろうとすると、どうしてもトレードオフで、別の面がマイナスになる」と語ったうえで、それでもやると決めています。夕食時間の一本化は、実際にやってみると顧客からの意見はほとんどありませんでした。

3. 広報を、集客ではなく採用の手段として使っている

社員寮の竣工をプレスリリースで配信し、働きやすさの取り組みを積み上げた結果、応募が約5倍になりました。守っているのは「継続できないことはしない」「優先順位をつける」「小さく提案して大きく与える」の3つです。同時に、徒歩圏内に4軒37部屋の社員寮を用意しています。

4. 客室数を増やさず、外側を作り直している

26室という規模を変えないまま、菓子店、ワーケーションスペース、温泉タンクの増設、株式会社化、支援会社の設立と、周辺を組み替え続けています。規模の拡大ではない代替わりの形です。

5. 業界の外で働いた経験で、自社が業界のどこにいるかを測っている

おにぎり屋の売上と熱海の旅館の売上を並べた経験、金融機関を内側から見た経験。どちらも家業の外で得たものが、戻ってからの判断に使われています。「家業ではなく企業を経営する」という言い方も、外での経験から来ています。この会社では、継ぐ前に外で働いた期間が、業界の常識を相対化する時間になっています。

6. 発信が、経営者自身の記録としても機能している

「配信の一覧は自分の通信簿」「報告する上司となる立場の人がいません」。経営者が自分の仕事を確認する手段として、対外的な発信が使われています。継続の動機を外部の反応だけに求めず、自分のための記録という側面を持たせていることが、続いている理由の1つだと考えられます。

7. 社員に対しても、顧客と同じ問いを立てている

「お客様と同じように、社員さんについても何を求めているのかということを会社として考えて、必要な環境を整えていく」。社員寮を作るときに、部屋数ではなく「この寮に住みたいから就職する」と思える質を目指したのは、この問いの立て方から来ています。福利厚生を条件として満たすのではなく、応募の理由になるところまで作っています。同じ投資でも、狙う地点が違います。

8. マニュアルを、守らせるためではなく足すために作っている

到着から見送りまでの全工程を動画にした目的は、覚える時間を短くして、その分を各自の工夫に回してもらうことでした。マニュアルは行動を固定する道具にもなりますが、土台として使えば逆に働きます。どちらの目的で作るのかによって、中身は変わってきそうです。

本事例から見える経営とマーケティングの学び

古屋旅館の物語は、地方の小規模宿泊業が「人材の確保」「業務の非効率」「情報の格差」という3つの宿題を、17代目への代替わりを起点に解いていった事例として読めます。重要なのは、内田宗一郎氏が先端を追わないことを方針として明示したうえで、導入するものを削減時間で測れる業務に絞っていることです。26室という規模で使える資源は限られます。その制約を認めたうえで、どこに投じるかを決めています。

そして、自館で検証した手順を業界へ出す会社を別に立ち上げました。自社の課題を同じ規模の会社の課題として言い直したことが、事業の対象を具体的にしています。ブランドやリソースが薄い状態から成長を作る経営者にとって、古屋旅館の歩みは「どこまで新しくするか」を決めるための学びになります。

「ビジネス知の機会格差をなくす」という私たちのミッションに向けて、これからも実践的で価値ある情報を発信していきます。この記事の内容について、さらに詳しく知りたい方は、ぜひご連絡ください。