ローカルグローススタジオは、『地方企業にスタートアップのような成長を』というテーマで、コンテンツ発信と支援サービスを展開しています。この記事では、実践的なビジネスノウハウを、できるだけわかりやすくお伝えしていきます。
今回取り上げるのは、福岡県糟屋郡久山町の株式会社久原本家グループ本社です。1893年(明治26年)、初代・河邉東介氏が福岡県久原村(現在の久山町)で醤油醸造業として創業しました。現在は4代目の河邉哲司氏(1955年生まれ)が率い、だしパックの「茅乃舎(かやのや)」、辛子明太子の「椒房庵(しょぼうあん)」、業務用と量販店向け調味料の「くばら」という3つのブランドを軸にしています。公式サイトによれば、2026年2月期のグループ売上高は336億円、従業員数は1,486名です。
河邉氏が家業に入った1978年、会社は年商約6,300万円、従業員6名の村の醤油屋でした。しかも本人は「絶対に家業は継がない」と言い続けていました。
家業を継ぐ経営者は、引き継ぐ会社を選べません。与えられた会社の中の何を変え、何を守るかの見極めがすべてになります。家業を継いだ方、これから継ぐ方に向けた事例として読み解きます。
この記事の要約
先にストーリーの全体像です。河邉哲司氏は福岡大学商学部を1978年に卒業し、家業に入りました。当時の事業は醤油の宅配で、前掛けをして軽トラックに乗り、久山町の得意先を一軒ずつ回る仕事です。福岡県内には当時150社の醤油屋がありました。入社後、河邉氏が広げたのは小売ではなく、業務用のたれやスープのOEM生産です。これで製造体制と原料調達のネットワークが育ちます。1990年、初の自社ブランドとして辛子明太子「椒房庵」を立ち上げますが、北海道産の原卵にこだわった結果、黒字化までに9年を要しました。それでも撤退せず、口コミで評判が広がります。2005年には久山町の山中に茅葺屋根の和食レストラン「御料理 茅乃舎」を開業し、翌2006年、店で出していただしを家庭でも再現できるようパック化しました。これが「茅乃舎だし」です。主軸に選んだのは、大手が強いかつおや昆布ではなく、九州で身近な飛魚の「あごだし」でした。流通も、量販店ではなく通信販売と直営店を主力に設計しています。社長に就任したのは、父の逝去後、41歳のときでした。
このストーリーから持ち帰れる観点は、次の7つです。それぞれ本文の章で事実を確認し、最後の7章で説明し直します。
1. 縮小する既存事業を、廃業ではなく土台として使っている(2章)
2. 9年赤字が続いた事業を、別の事業の黒字が支えている(3章)
3. 大手が強いカテゴリーを避け、地域の食文化を全国へ持っていっている(4章)
4. 売る場所を、自分たちで設計している(5章)
5. 日々の判断に使える基準を、一語で持っている(6章)
6. 事業の転換は、25年以上かけて段階的に進んでいる(全体)
7. 原点になる場所に、投資を続けている(全体)
各章の末尾に、ローカルグローススタジオの分析と「この事例から考えられること」をまとめています。
参考資料一覧
- 久原本家グループ 公式サイト、会社概要、歴史・沿革
- 社長名鑑「経営者インタビュー 事業承継秘話から経営哲学まで」河邉哲司氏(2022年9月取材)
- 日経ビジネス電子版「仕方なく継いだ家業、売上高500倍に」(2023年6月23日)
- 地方創生ジャーナル「福岡の小さな醤油屋が起こした奇跡」前編(2019年11月15日)、後編(2019年11月16日)
- PRESIDENT「茅乃舎ブランドを開花した多逢勝因」前編(2017年7月3日号)、「『食の安全』実現に『濯去舊見』」後編(2017年7月17日号、本人執筆)
- AdverTimes「久原本家×水野学のアイデア会議」(2015年2月27日)
- 久原本家 公式お知らせ「御料理 茅乃舎 リニューアル グランドオープン」(2025年6月19日)
- 久原本家 公式お知らせ「伊豆本店、子会社化のお知らせ」(2024年4月)
- 福岡大学「企業論」講義レポート(久原本家グループ 河邉哲司氏)(2021年12月2日)
- COWTV 社長室101 久原本家 河邉哲司社長 全10回
数字で見る久原本家
| 時点 | 数字 | 出典 |
|---|---|---|
| 1893年 | 初代・河邉東介氏が福岡県久原村で醤油醸造業として創業 | 公式サイト |
| 1978年 | 河邉哲司氏が福岡大学商学部を卒業し入社。当時の年商は約6,300万円、月商500万円、従業員6名 | 本人談(社長名鑑) |
| 当時 | 福岡県内の醤油屋は150社(現在も107社) | 本人談(社長名鑑) |
| 1980年代 | 業務用たれ・ラーメンスープなどのOEM生産を本格化 | 公開報道 |
| 1990年 | 初の自社ブランドとして辛子明太子「椒房庵」を立ち上げ。黒字化まで9年 | 本人談、地方創生ジャーナル |
| 41歳 | 父の逝去後に社長就任(34歳のときに一度交代を申し出たが実現せず) | 本人談(社長名鑑) |
| 2002年5月 | スローフーズ課を新設(課員4名)。現在の農業生産法人・美田の前身 | PRESIDENT(本人執筆) |
| 2005年 | 久山町に茅葺屋根の和食レストラン「御料理 茅乃舎」を開業 | 公式サイト |
| 2006年 | 「茅乃舎だし」発売 | 公式サイト |
| 2010年4月 | 東京・六本木の東京ミッドタウンに初出店 | 本人談(AdverTimes) |
| 2015年時点 | 直営店16店舗 | 日経ビジネス(2015年2月) |
| 2018年3月時点 | 直営店22店舗 | ニュースイッチ |
| 2022年 | 北海道恵庭市に大型新工場を稼働 | 公開報道 |
| 2023年9月 | 「北海道 椒房庵」を立ち上げ、大丸札幌店に直営店を開設 | 公開報道 |
| 2024年4月 | 老舗酒蔵・伊豆本店(福岡県宗像市、1717年創業)を子会社化 | 公式プレスリリース |
| 2025年11月21日 | 東京・銀座3丁目に旗艦店「東京銀座 茅乃舎」をグランドオープン(隈研吾氏が店舗設計を監修) | 公式プレスリリース |
| 2026年1月 | 伊豆本店を新生開業 | 公式プレスリリース |
| 2026年2月期 | グループ売上高336億円、従業員1,486名 | 公式サイト(2026年8月31日更新) |
| 2026年6月 | 「京都祇園 茅乃舎」開業 | 公式プレスリリース |
1. 「絶対に家業は継がない」と言っていた4代目
河邉哲司氏は1955年生まれ。福岡大学商学部を1978年に卒業し、家業の久原調味料(現・久原本家グループ本社)に入社しました。ただし、本人の気持ちは前向きなものではありませんでした。
「絶対に家業は継がないと小さな時から言ってきましたので、本当に仕方なく入ったというのが本心です。(中略)本当に、夢も希望もなく、家業を無理やりに継がされたというのが、最初だったのです」
継がない選択肢は、実質的にありませんでした。
「しかし私は長男坊で、姉はすでに嫁いでいました。家業から逃げるなら、夜逃げするしかないという世界です。せめて修業として他の会社に就職したいと言いましたが、おやじは『修業に行って帰ってくる頃には、どうせ会社が潰れている。だからすぐに継げ』の一点張り」
当時の会社の規模も、率直に語られています。
「基本的にその時代は従業員が6名しかいませんでしたから。しかも、私どもの会社は醤油屋で、事務所とガラス1枚を隔てて、われわれの家のダイニングがあったほどです」
「従業員が6名しかいない醤油屋で、ましてやその当時、福岡県に醤油屋は150社あった。今でも実は107社もあるんです」
「年商6300万円、月の売り上げ500万円の醤油屋だった時に、私は自分で醤油をつくってそれを軽トラックに載せ、前掛けをして運転しながら一軒一軒配達していました」
「当時の商売はしょうゆの宅配。前掛けをして軽トラックに乗り、地元・久山町のお得意様を一軒一軒回るのです。勝手口から文字通り”勝手”に入って、空き瓶を回収して新しいしょうゆを置いてくる」
新規の営業では、断られ続けました。
「やっぱり、いろいろとしがらみがあるわけです。人間不信になるくらい、がくぜんとしました」
そのなかで得た経験が、商売の原点になっています。
「しかし極めて少なかったけれども、『分かった』と言ってくださったお母さんもいた。その時のうれしさ、感動といったら、今でも頭から離れることはありません。お客様には感謝しかない。それが私の商売人としての原点です」
なお、社長への就任は入社からかなり後のことでした。
「結局私が社長になったのは、父が亡くなったあとです。41歳の時でした。(中略)たしか34歳の時に、もう代わろうと言ったことがあるのですが、お金のない人間は社長になれないと言われ、その時は社長になりませんでした」
社長になる前から、事業の作り直しは始まっていたことになります。
醤油では勝てない、と最初に結論を出した
入社後すぐに突き当たったのが、醤油という商売そのものの限界でした。
「いくら頑張って醤油を売っても、これはとてもじゃないけど売上を上げられないということにぶち当たりまして。いくら頑張っても、いくら頑張っても、地元のナンバーワン、ナンバー2を、俺は絶対抜くことはできんと。そういうところからスタートしたんですよ」
福岡県内には当時150社の醤油屋があり、その中で地元の上位2社を抜くことはできない、という見極めが最初にありました。
「じゃあどうしたらいいかって考えた時に、じゃあ醤油を原料に何かできないかっていうことで、タレっていう発想になりまして」
商品を変えるのではなく、自社の醤油を原料として使う先を探しています。この転換が、後のすべての出発点になります。
この事例から考えられること
照らし合わせてみる項目
- 後継者が家業に入る動機を、本人の言葉で聞いたことがあるか
- 既存事業の縮小を、業界全体の数字で確認しているか
- 社長就任の時期と、権限を渡す時期をどう置いているか
- 新規顧客への営業を、後継者が経験しているか
- 自社の年商と従業員数を、同業と比べたことがあるか
事例から読み取れること
1. 業界の事業所数の推移を、数字で把握している
「福岡県に醤油屋は150社あった。今でも実は107社もある」。自社の業界に何社あり、どう推移しているかが、本人の言葉で語られています。市場の縮小を数字で持っていたことが、待つのか変えるのかの判断につながったように読めます。
2. 後継者が、新規の飛び込み営業を経験している
断られ続けた経験と、1件だけ受けてくれた記憶。この両方が後の判断を支えています。既存の取引先への配達だけでは得られなかった経験です。
3. 社長就任の前から、事業を作る権限が渡っている
河邉氏が社長になったのは41歳ですが、OEMの拡大も椒房庵の立ち上げも、その前に始まっています。肩書きと権限が同時ではなかった例です。
2. 小売ではなく、OEMで業容を広げた
入社直後の河邉氏が取り組んだのは、醤油の小売配達ではありませんでした。業務用のたれやスープのOEM(相手先のブランドで生産する事業)です。1980年代に、焼肉店向けのたれやラーメンスープなどの生産を本格化させました。
使われていない機械があった
始まりは、社内で眠っていた設備でした。
「たまたま、その餃子のタレを詰めるパックの機械をですね、私が大学2年の時に父親が買うから、その研修行ってこいって言って、私が大学生で時々動かしてたんですよ。もうほとんど動いてない機械があった。それを利用してタレをなんかできないかなという発想で、餃子のタレを作ってみたらということで、最初は餃子のタレに入っていったんですよね」
大学生のときに研修を受けた機械が、ほとんど使われないまま社内にありました。新しい設備を買ったのではなく、既にあるものの用途を探したことになります。
人生が変わった数秒
依頼先は、地元の食品メーカーでした。ただし、営業に行くこと自体が難しい状態でした。
「私は大学卒業してすぐ継がされたもんですから、当然誰も教えてくれないわけですよ。しかも従業員6名しかおりませんから、営業のいろはもわからない。だから営業しに行くのが怖いわけですよ」
そこで、社長である父に依頼を頼みます。ところが、先方の反応は予想外でした。
「父は社長だったんですけど、社長に、餃子のタレをしたいって頼んできてって言ったんですね。そしたら行って、やりたいって言ったみたいですけど、そしたら社長が、息子呼べって言われたんですよ」
翌日、河邉氏本人が向かいます。
「次の日私が行きまして、社長が『お前やる気あるか』って言われたんですね。おそらく、私が出てこいと。お前がやりたいって言ってくるんだったらあれだけど、親父はいかんやろと思われたんでしょうね。その時に私が『やる気あります』って。元気だけ良かったもんですから」
「そしてその時に、分かった、じゃあ切り替えてあげるっていう風になりまして。もうその本当に、そこの本当にもう数秒ですよ。それで私の人生も変わったっていうな形なんですけどね」
やる気があるかと聞かれ、あると答えたやりとりだけで、取引が始まっています。本人はこの場面を、人生が変わった数秒と表現しています。
成長するほど、怖くなった
OEMは順調に伸びました。ただし、社内には別の感覚が生まれます。
「うまくいったんだけど、行けば行くほどですね、従業員の皆さんが『社長これいつか切れるんじゃないですか』みたいな。やっぱり心配になるわけですよ」
不安には、会社の歴史が重なっていました。
「私どもは戦前、その韓国とか満州にずっと醤油を出してた時代があって、終戦によってガーンと取引が断たれたという、やっぱり苦い歴史があるんですよね。やっぱりそれと重なったんですよね。成長すればするほど怖くなったっていうのが現実でして」
戦前の海外市場を終戦で失った記憶が、他社のブランドで作り続けることへの警戒につながっています。自社ブランドを立ち上げる動機は、成長の勢いからではなく、この不安から出ていました。
ただし、最初の試みは失敗しています。
「それでなんとか自分とこのブランドの商品を作らないかんということで、ドレッシングだったりタレだったり、色々挑戦したんですけど、うまい味のものも作ることができなかった。それから作ったとしても、その反響がなかった」
OEMは自社のブランドが表に出ないため、ブランドの資産は積み上がりません。しかし、全国の食品メーカーや外食チェーンに調味料を量産するメーカーとしての製造体制と、原料調達のネットワークがここで育ちました。後に「茅乃舎だし」を全国の百貨店ルートに乗せられる供給力は、この時期に作られたものです。
配達中心の小売事業を続けたまま縮小するのでもなく、廃業するのでもなく、既存の製造能力を別の売り先に向けました。この順番が、その後の展開の前提になっています。
ローカルグローススタジオの分析:見えている事業ではなく、その内側の能力を数える
私たちは間違ってはいけない戦略の順番|ビジョン→事業→商品→営業→組織という記事で、戦略には階層があり、事業をどう定義するかが商品や営業の前に来ると書きました。手元にある商品から考え始めると、既存事業の延長線しか出てこないためです。
久原本家の1980年代は、事業の定義を組み替えた場面です。「醤油を配達する会社」という定義では、市場が縮む以上、伸びる余地がありません。一方で、社内には醤油を醸造する設備と、調味料を配合する技術がありました。この能力を「業務用調味料を量産できるメーカー」と定義し直すと、届け先が飲食チェーンや食品メーカーへ広がります。
同じ記事では、「何のために」が決まっていれば日々の意思決定も迷わない、とも書きました。久原本家の場合、OEMで稼いだ資金が、後に9年間の赤字を許容する原資になります。先に事業の幅を広げたため、次の投資ができた順番です。
この事例から考えられること
1. 自社の「できること」を、商品ではなく能力で捉えている
「醤油を作れる」ではなく「調味料を配合し量産できる」。能力の言葉に置き換えたことで、届け先が変わりました。
2. 同じ設備で、別の売り先を見つけている
小売から業務用へ。設備は同じまま、売り先を変えることで市場の大きさが変わっています。
3. 自社の名前が出ない事業を、続けている
OEMは自社の名前が表に出ません。それでも、後の自社ブランドを支える供給力と資金を作りました。目立たない事業が次の投資を支えた例です。
3. 9年赤字を出し続けた、初の自社ブランド
1990年、久原本家は明太子で初の自社ブランド「椒房庵」を立ち上げます。きっかけは、社内からの一言でした。
「私どもの工場で働く、ある女性の従業員から、今これほど順調にいっているという状況の中で、私に対して『これはいつまでも続くのでしょうか』とズバッと言ってきたわけです。(中略)『そうだよね。このままじゃいかんよね。やはり自社ブランドをつくろう』と」
「その従業員が『今どんどん成長して、何か調子よくいっているように見えているけれど、大丈夫なんですか?』ということを私に言ったんですよ。水をぶっかけられた気持ちでした」
事業の柱を増やすという発想も、このとき語られています。
「毛利元就ではないですが、やはり三本の矢が絶対に必要だと思いました。それで三本目の矢をつくろうということで、『何がいいかな』とアンテナを張り巡らせたときに、さきほどの無添加明太子というのに出合って、『これかな』と思ったわけです」
明太子を選んだ理由は、当時の市場の状態にあります。
「その当時、明太子のブランドが非常に弱かったというか、博多辛子明太子というくくりの中で売れているという状況がありました。(中略)私は店の裏側にあっても売れるような明太子、『絶対このブランドでないとだめだ』と言われるような、ブランド力がある明太子をつくったら良いのではないかという想いに至りました」
具体的な作り方からも、同じ考えが読み取れます。
「卵も北海道の卵、そして名前も『椒房庵』という独特の名前にし、パッケージも山笠とかどんたくではなくて、きちんとお土産にしてもおかしくないようなパッケージにしようということでスタートしたのが、この『椒房庵』という明太子事業でした」
目標にした会社も挙げられています。
「滋賀県の大津に本社があるお菓子の『叶 匠壽庵』、それから新潟の水産でさけ茶漬けが有名な『加島屋』、この2つが非常に素晴らしいブランドでして、私の中での目標でした」
ただし、結果はすぐには出ませんでした。
しかしスタートして9年間は赤字続きだった。味がよい「椒房庵」の明太子は評判が高く、よく売れた。それでも、赤字を脱出できなかった。
── 地方創生ジャーナル「福岡の小さな醤油屋が起こした奇跡」前編(2019年11月15日)
理由は、原料の価格でした。
「それは別に売上が上がらなかったというわけじゃないです。売上はまあ徐々にですけど、確実に上がっていきました。しかしそれ以上にですね、卵、私どもは北海道の卵を使うっていうことが1つの大きな前提でスタートしましたんで、それ以上に卵が上がりまして。売っても売っても赤字みたいな話になりまして」
「我々が始めた時から上がり出しまして、来年下がりよ、来年下がりよと言いながら、毎年上がりました」
来年は下がるはずだと言い続けて、9年間上がり続けました。それでも撤退はしていません。
「辞めるわけにはいかない。じゃあどうしたらこれを黒字にできるか?と考えたときに、2つ方法があることに気づいたんです」
最後のつもりで、一番高い卵を使った
1つめの方法は、原価をさらに上げることでした。
「北海道の卵の中でも色々ランクがあるんですよ。要するに我々はやっぱり安いものしか使えなかった。そうするとすごいロスが多かった。それと味のブレがあった。安いもの、北海道産といっても安いものにはブレがあるんですね。やっぱり品質のブレがあるんですね」
「ですからもう最後のつもりで、税理士の先生が『もういつまでこの赤字を垂れ流すの』って怒られてましたから、もう最後のつもりですね。もっといいものを買おうと思って、本当に高い、1番高い卵を使って、その挑戦しようと。最後のつもりで」
赤字を減らすために原価を下げるのではなく、上げています。結果は逆に出ました。
「見事にですね、要するにロスが非常に減った。それから味のブレが少ない。今回美味しかったけど次回買った時はおいしくない、そういうことがあったわけです」
「卵っていうのは、熟成度のいいやつから、その熟成してないやつとか色々あるわけですね。それを同じように確率的に漬け込みしてもですね、中に味が入らない。だからおいしくないということがあるんです。それが高級なものであれば、ムラが少ない。非常に少ない」
安い原料は品質にばらつきがあり、同じ手順で漬け込んでも仕上がりが揃わず、ロスも出ます。高い原料に変えたことで、廃棄が減り、味が安定しました。
卸では品質を守れない、と判断した
2つめの方法が、流通の変更でした。
「元々スタートが問屋さんでさせていただきましたんで、これはやはり卸であるわけですよね。そうするとやっぱりなかなか合わない。ですからやはり直販はしなきゃいけないと。そうしないとこの品質は守れないと思ったんですね」
「この久山の本店、椒房庵の本店を作って直販に力を入れた。それがだんだんですね、直販の売上が上がってきた。店舗と通販、両方です。それによって直販比率がだんだん、もう0からだんだん上がってくることによって、これやっぱり利益が当然出ますからね。それによって赤字がやっと10年目に解消できた」
原料の質を上げ、流通を短くするという2つの手で、10年目に黒字化しています。
失敗について問われたときの答えも、簡潔です。
「諦めたときが失敗だけど、私は諦めなかった」
9年間の赤字を許容できたのは、OEM事業が生む資金と、家業として長期で判断できる立場の両方が揃っていたからです。
この事例から考えられること
1. 黒字化まで9年かかっている
3年で判断していれば、椒房庵は途中で終わっていた事業です。何年赤字を許容するかが定まっていたかどうかは資料からは分かりませんが、9年という長さは記録に残っています。
2. 赤字を支えたのは、OEMという別の事業だった
新ブランドの赤字は、既存事業の利益で埋められています。既存事業がどれだけ耐えられるかが、新規事業の時間軸を決めていた形です。
3. 社内からの疑問が、事業の起点になっている
「これはいつまでも続くのでしょうか」という現場の一言が、自社ブランド立ち上げの起点でした。順調に見える時期の社内の懸念が、後の判断につながった例です。
4. 茅葺屋根のレストランから生まれた「茅乃舎だし」
「そんなもん売れんやろ」から始まったヒット商品
椒房庵が形になったころ、もう1つの主力が生まれています。焼き鳥店で出るキャベツにかけるタレ「キャベツのうまたれ」です。きっかけは、友人の一言でした。
「これも実は私の大学時代の友達がスーパーやってて、最近その、タレから焼いた焼き鳥の冷凍品がスーパーでよく売れると。だったら、やっぱり家で焼き鳥食べるならキャベツも、というかキャベツのタレもないといかんやろって言い出して、それを作れって言ったんですよ」
「でもそんなもん売れんやろって言ったんですけど、俺が売れるけん、と。売れんでもお前、そうするとラベルぐらいやろうがって言って、確かにそうって言ってですね。本当に売れるなんて夢にも思わずに出したんですよ。ところがボーンと火がついて」
売れると思っていなかった商品が主力になりました。その後、地元の大手が同じ市場へ参入してきます。
「私どものキャベツのタレを出して、売れたもんですから、地元の大手さんがこぞって参入するという話があって。こら人おりもないと思って、福岡の吉本さんにお願いして、賑やかなCMを作った」
「あれがですね、非常に危機的な、そういう状況で危ないと思って。もう仕方がない、会社がいかに目立つかっていうことでですね、賑やかな、俗に品がないCMができたんですけどね」
結果として、市場を先に押さえることができたと説明されています。
「実際その大手は参入してきました。けどやっぱり結局、先発の強みですよね。ほとんどカバーすることができたっていうのが、やっぱりあのCMのおかげなんですよ」
4億円をかけた、収支の合わない投資
椒房庵が黒字化したころ、河邉氏は次の打ち手に向かいます。父の逝去を受けて、自分が4代目である意味を2年ほど考えたと語られています。
「4代目のその意義ですよね、使命ですよね。俺は何のために4代目をするのかなということを考える時期がありました。2年ぐらいかかりましたけど、その時の結論が、創業200年に向けてですね、確実に成長できる方向を示すのが私の役目だと。4代目として思ったんです」
「その時にじゃあ何をしようかなって言ったのが、毛利元就じゃないですけど、三本の矢を作ろうと。ですからくばらと椒房庵はできたと。もう1つやっぱりないと危ないと」
3本目に選んだのが、無添加のブランドでした。ただし、その作り方が独特です。
「キーワードは、安心安全無添加のブランドを作ろうと思ったんですよ。そのブランドからスタートしまして、そのためにどうしたらいいかって考えたのが、レストラン事業からスタートしようっていう、逆の発想なんですよ」
商品を作ってから店を出すのではなく、店を作ってから商品を出す、という順番です。
「安心安全無添加の商品を作るための土台としてのレストラン」
投資額も語られています。
「実はその4億もかけたんですね。この久山の御料理茅乃舎というレストランに4億。もう収支、絶対レストラン業として合わない投資なんですよ。それはあえて、そのブランドを作るっていう1つの目標のために使ったんです」
当然、反対されています。
「皆さんが、やめれやめれ、やめれやめれって話です。あんな山ん中でそんな金使ってバカじゃないかと」
しかも、時間がかかる想定でした。
「椒房庵が10年かかりました、1つのブランドが確立されるまでに。そうするとやっぱり当然、明太子ってみんな知ってるブランドそのもので10年かかったということは、安心安全無添加というブランドは、やっぱり10年以上かかると思ったんです」
結果は、想定より速く出ました。
「おかげさんでこれがですね、非常に早いスピードで。私が思ってるもう5倍も6倍も早いスピードでですね、この認知されてるっていうか、望まれてるって言いますかね。安心安全無添加というものを、健康って意識した人が非常に多くて、その層にすごい勢いで受け入れられてる」
3つのブランドの売上構成は、それぞれおよそ3分の1ずつだと説明されています。ただし伸び率は茅乃舎が突出しています。きっかけの1つが、母方の実家にあたる老舗酒蔵・伊豆本店(福岡県宗像市、1717年創業)の茅葺屋根を葺き替える光景でした。
久山町にて当グループが運営する茅葺きのレストラン『御料理 茅乃舎』は、伊豆本店の茅葺き屋根を葺き替える姿を河邉が目の当たりにしたことがきっかけで誕生しました。いわば「茅乃舎」ブランドの原点と呼べる場所でもあります。
── 久原本家プレスリリース「伊豆本店、子会社化のお知らせ」(2024年4月)
もう1つのきっかけが、スローフード運動との出会いです。
2002年5月、スローフーズ課を新設した。いまの農業生産法人・美田の前身で、課員は4人。(中略)4年前にイタリアを訪ねたのが契機となる。
── PRESIDENT「『食の安全』実現に『濯去舊見』」後編(2017年7月17日号、本人執筆)
2005年、久原本家は福岡県久山町の山中に、茅葺屋根の和食レストラン「御料理 茅乃舎」を開業しました。化学調味料や保存料を使わず、素材の持ち味と旬を生かす料理を出す店です。
そして翌2006年、店で出していただしが商品になります。
『茅乃舎だし』は、この店を訪れたお客様から、「家庭でも同じ味を作りたい」というお声をいただいたことをきっかけに誕生しました。
── 久原本家プレスリリース「御料理 茅乃舎 リニューアル グランドオープン」(2025年6月19日)
主軸に選んだのは「あごだし」、つまり飛魚のだしでした。かつおや昆布のだしは、すでに大手食品メーカーが大きなシェアを持つカテゴリーです。九州で身近に使われるあごだしを全国へ広げる方向を選んだことになります。
事業の位置づけについては、河邉氏がこう語っています。
「われわれ、元々は醤油屋です。そして、現在は『茅乃屋』ブランドの中で、だしが注目を浴びています。この醤油とだしというのは、まさしく日本食のど真ん中じゃないですか、二つとも」
そして、久原本家が最も大事にしている言葉があります。
「私どもが最も大事にしている言葉に『モノ言わぬモノに、モノ言わすモノづくり』というものがあります。(中略)宣伝に頼って売り上げを伸ばそうとするのではなく、本当においしいもの、手間隙かけたおいしいものをつくる」
この言葉は、社外から得たものでした。
「初めてこの言葉を聞いたときに、すごく鳥肌がたったんです。私がやろうとしていること、私が思っていることは、この言葉で代弁されるなと思いました。(中略)これなんかは、たくさんの皆さんが買って下さって、『私が気に入っているの』とみんなに配ってくださったことで、全国に拡がっていった」
もともとは、河邉氏が会合で知り合った岡山の民宿オーナーの言葉だと説明されています。
なお、茅乃舎のロゴとパッケージは、good design company(代表・水野学氏)が担当しました。
ローカルグローススタジオの分析:大手が強い棚を、避けている
地方企業やスタートアップに共通する、低リソース・ブランド無しの戦わない戦略で、私たちは、資金も知名度も限られる企業が大手と同じ土俵で競わない方法を書きました。同じ市場で正面から戦えば、広告費と物量の差がそのまま結果になります。
「あごだし」というカテゴリーの選択を読み解くと、私たちが記事に書いた考え方と同じ考えが表れています。かつおだしと昆布だしの棚には、すでに大手の商品が並んでいました。そこへ後から入れば、価格と物量の勝負になります。一方、あごだしは九州以外ではまだ広く知られていないカテゴリーでした。競合が少ない代わりに、市場そのものを作る側に回ることになります。久原本家が選んだのは後者です。
同記事では、自社の強みを活かせる市場や手法を選ぶ方法も書きました。あごだしは、九州の食文化に根差した素材です。地域の食文化という、大手が後から真似しにくい背景を持っています。地域でしか持ちえないものを全国の食卓に届け直すという順番を、久原本家は選んでいます。
この事例から考えられること
1. 大手の棚を避け、自社の地域の食文化を選んでいる
九州で身近な「あごだし」は、他の地域では広く知られていないカテゴリーでした。自社の地域で当たり前に使われているものが、競合の少ないカテゴリーの候補になった例です。
2. 商品より先に、体験できる場を作っている
「家庭でも同じ味を作りたい」という声が、だしパックの起点でした。店で味を体験してもらってから、持ち帰れる形にするという順番です。
3. 大事にする言葉が、1つに決まって共有されている
「モノ言わぬモノに、モノ言わすモノづくり」。宣伝で売るのではなく、商品自体に語らせるという方針が、一文で共有されています。
5. 売る場所を、自分たちで設計する
茅乃舎だしが発売された2006年当時、久原本家には全国に届けるための量販店のルートが十分にありませんでした。そこで採ったのが、通信販売と、百貨店や商業施設での直営店を主力にする流通設計です。
通販の会員が増えたタイミングから、百貨店や商業施設からの出店の打診が相次ぐようになります。2010年4月に東京ミッドタウンへ初出店。そのときの経験も語られています。
「しかし2010年4月に東京・六本木の東京ミッドタウンに出店してみて、周りのブランドのレベルの高さに驚いた。もっと勉強して、もっと良いものをつくり上げて、ブランドとしてより成長したいと強く思いましたね」
店舗数は、2015年時点で16店舗、2018年3月時点で22店舗と増えていきました。直営店と通信販売の比率は、2023年2月期時点で全体の約82%、量販店流通の経由は15%程度と公表されています。一般的な食品メーカーが量販店の流通を中心にするのに対し、直販が主軸という構造です。
海外展開も、この直販の考え方の延長で動いてきました。2016年にベトナムのホーチミンへ日本料理店を出店し、続いて米国市場を対象に「久原本家USA」を設立、ニューヨークでの「Japan Week」への出展などを経て、米国向けの通販サイトを運用しています。観光客向けの土産として既存の商品を並べるのではなく、久原本家は通販という直販の経路を米国で育てる道を選びました。
この判断を可能にした条件についても、率直に語られています。
「これはオーナー企業だからできるんですよ。大手だったら、取締役会をして、社内決裁を通すにも時間を要してね、『それ失敗したらお前責任取れ』みたいな話になるわけですよ。(中略)でも我々は挑戦するしかないから」
久山町という立地との関係も、大事にされています。
「われわれの121年の歴史を見た時に、戦前は今でいう中国や韓国で醤油の需要が拡大しました。ところが、終戦で激しい反動があった」
「我々は久原という地域で生まれた会社なんですが、『福岡のしかも久原の田舎企業が全国紙の一面に広告を出すなんて夢にも思わなかった。がんばれ!』と言ってくださったんです。(中略)久原の人たちが、『久原本家』があることを誇りや自慢に思ってもらえるようになったらいいよねと、社員たちといつも話しているんですよ」
現在のグループは、経営管理と商品開発を担う久原本家グループ本社、製造の久原本家食品、店舗販売と通販の久原本家、量販店向けの久原醤油、久原本家 北海道、農業法人の美田、久原本家USA、伊豆本店、久原本家グループエージェンシーなどで構成されています。
近年の展開も続いています。2022年に北海道恵庭市で大型新工場が稼働し、2023年9月には「北海道 椒房庵」を立ち上げて大丸札幌店に直営店を開設。2024年4月には母方の実家である伊豆本店を子会社化し、2026年1月に新生開業しました。2025年11月21日には東京・銀座3丁目に旗艦店「東京銀座 茅乃舎」がグランドオープンし、店舗設計は建築家の隈研吾氏が監修しています。2026年6月には「京都祇園 茅乃舎」も開業しました。
ブランドの原点である「御料理 茅乃舎」も、2025年6月に茅葺屋根の葺き替えを終えてリニューアルオープンしています。約900平方メートル、約80トンの茅を使った屋根です。
そして今後については、柱をさらに増やす方針が語られています。
「ですから今言っているのは、三本の矢ではまずいと。今から四本でも五本でも持っておかないと、時代のスピードが速すぎるからもたないだろうという話をしています」
ローカルグローススタジオの分析:店舗と通販を、関係が積み上がる場所として使っている
顧客獲得コストを下げるには「ストック>フロー」を意識しようで、私たちは、広告のように出稿を止めれば効果が消えるフロー型と、一度作れば効き続けるストック型を分けて考えるという考え方を書きました。予算の限られる企業ほど、ストック型の比重を上げる意味が大きくなります。
久原本家の直営店と通信販売を読み解くと、私たちが記事に書いたストック型と同じ考えが表れています。量販店の棚に置けば、その瞬間の販売は立ちますが、誰が買ったのかは分かりません。直営店と通販なら、顧客の連絡先が残り、次の案内も届きます。料理教室、試食、季節のレシピといった接点も作れます。会員が増えたことが、百貨店からの出店の打診につながったという順序も、この積み上げの結果です。
同記事では、ストック型は効果が出るまで時間がかかるとも書きました。2006年の発売から、2010年の初出店まで4年。そこから店舗数が積み上がるまでにさらに年月がかかっています。量販店に一括で並べるより時間はかかりますが、顧客との関係が残ります。
この事例から考えられること
1. 顧客の連絡先が残る売り方を、持っている
卸だけの会社には、誰が買ったのかが分かりません。久原本家は通販と直営という、連絡先が残る経路を作りました。次の打ち手の材料が社内に残る構造です。
2. 通販で顧客がついてから、出店の話が来ている
会員が増えてから百貨店の打診が来た、という順序です。先に店を出す形とは、交渉の条件が変わってきそうです。
3. 柱が好調なうちに、次の柱を検討している
「三本の矢ではまずい。今から四本でも五本でも持っておかないと」。柱を増やす検討が、いまの柱が好調な時期に始まっています。
6. 判断基準は「永続」、その条件は3つ
ここまでの打ち手には、共通の判断基準があります。河邉氏はそれを「永続」という一語で説明しています。
「私どもの久原本家グループというのは、永続っていうのが何よりも優先することなのです。ですからイコールですね、永続と結構逆方向にあるのが金だと思うんですよ」
「例えば何か偽装したとか、日付改ざんしたとか。必ずなぜかって聞いたら、あれをすると会社が生存しますとか。もう全部、金に行くんですよね」
そして、これを日々の判断に使わせています。
「我々は永続というものを常に、色々なところで。毎日社員が色んな事柄にぶち当たります。その時には必ずこの永続っていう物差しで、右に行けばいいか左に行けばいいか判断しなさいという判断基準にさせてるんですよ」
この永続を実現する条件として、3つが挙げられています。
1つめ、本物
「開発だったり製造グループは、いかに本物を求めていくか。例えば我々、明太子だったら北海道の卵だったり、いろんなそういうものを突き詰めていく」
「要するに大量生産型じゃない。量は売らなくていい、企業規模は金額が増えなくていいから、とにかくいいもの、いいものを突き詰めなさいという考え方」
「客単価は上がっていく。もちろん上がるし、人数は少ないです。少ないけど、そこの市場できちっと取っていかないと、我々は残れないと思って」
規模を大きくすることを目標に置いていません。9年赤字の局面で一番高い卵に切り替えた判断も、この考え方から出ています。
2つめ、地方の旗
2つめが、商品に地域の名前を掲げることです。この考え方は、実際に東京で断られた経験から来ています。
「キャベツのうまたれ、あれは焼き鳥屋さんのキャベツのタレ。福岡ならまだ分かりますよ。あれを東京に持っていったんですよ。そしたらですね、『なんやこれは、こんなもんわからんもん持ってくんな』と。怒られました」
「だから、もし考えてもいいけど、ノンオイルドレッシングっていう名前にして持ってこい、そしたら考えてもいいと」
この提案を断ったことが、結果的に商品を守りました。
「でもですよ、もしそのノンオイルドレッシングっていう名前にしてたら、もう今ひとたまりもないです。市場にないです。それは大手さんが同じものを作ったら、もう負けますから」
「でもあれは、博多の焼き鳥屋さんのキャベツのうまたれって書いてるから、入り口は非常に入りづらい。狭い。けど入ったら抜けられんみたいな。競合がいないわけです。ですから守れるわけです。イコール永続になるわけです」
分かりやすい名前にすれば入口は広がりますが、大手が同じものを作れます。分かりにくい名前は入口が狭いものの、真似されにくくなります。この二者択一で、後者を選んでいます。
「私は地方の企業は、やっぱりいかに本物を求めていくか、そしていかに地方の旗を立てるかということが、1つ大きな勝負になるんではないかなという風に考えてます」
3つめ、感動
3つめは、商品を作らない部署に向けた条件です。
「例えば接客とか総務とかは、本物を作ることもできないということになるわけですね。そういう人と接する部分の人たちには、感動という話をしてます」
「お客様に感動を与えることによって、『あなたが好きだから買いに来たわ』という話になるんです。現実的にはもちろん、物が好きだから、物がいいからっていうのももちろんあります。でもそれもそうだけど、やっぱりあなたが好きだから、あなたに会いたいから買いに来たいっていうお客さんも確実にあるんですよ」
そして、この感動の作り方が具体的です。久原本家の本店では、来店客を全員で見送り、無料のコーヒーを出しています。その理由が説明されています。
「福岡市内に5万と明太子屋さんあるのに、わざわざこんな田舎にこんなにたくさん来ていただけると。ありがたいと思わんかっていう発想ですね。そしたらその気持ち、ありがたい、感謝の気持ちをどう表現するっていうことで」
「コーヒーって普通、無料のコーヒーありますよ。でもポットに置いてあって紙コップが置いてある、セルフ。それじゃないやろって。我々はやっぱり喫茶店みたいにきちっと聞いて、きちっとお出しする。しかもコーヒー豆は高いもの。ただだから安くていいだろうじゃないやろ。ただだから高くないといかん」
工場の従業員にも及びます。
「工場の社員が通るんですよね、白服着て。彼らもちゃんとご挨拶しなさいって言ってるんですよ。店員さんが挨拶するのは当たり前かなと。でも工場の人まで挨拶する。喜んでいただけますね」
「ちょっとうまく」を徹底する
これらの取り組みの位置づけも語られています。
「商売っていうのはね、繁盛する方法が2つあると。1つはね、特許商品を作る。特許で守られた商品を作る。そんなもん俺たちは考えつくわけないじゃないですか。だからそういうのは俺たちは無理って。もう1つだけある。人よりちょっとうまく。ちょっとうまくを徹底的にする」
「それは難しいことじゃないです。ちょこっとですよ。でもそれはみんなで徹底的にすれば、すごい差別化するんですね」
「ただ徹底的はできんですよ、なかなかね。私も命令するとできない。だからみんなでやろうやと。ただし私が見ててできてなかったら、もうやかましい、怒鳴り込んで言います」
そして、続けた先に何が起きるかも語られています。
「これはフードなんですよ、文化なんですよね、企業の。それは当たり前の文化になるんです。これまでが大変ですよ。でも文化になったら当たり前のことだから。この当たり前の視点をいかに上げていくか。そうすると企業っていうのは確実に永続に、私は向かえるんではないかなと思ってます」
ローカルグローススタジオの分析:入口を狭くすることで、守れる場所を作っている
上の分析で触れた「戦わない戦略」が、商品名の付け方にも出ています。同じ棚で同じ広告量を投じれば、資本の差がそのまま結果になります。
「キャベツのうまたれ」の命名は、この判断が最もはっきり出た場面です。東京の取引先から「ノンオイルドレッシングという名前にすれば扱う」と言われて断っています。理由は、分かりやすい名前にした瞬間、大手が同じものを作れるようになるからです。
「入り口は非常に入りづらい。狭い。けど入ったら抜けられん」
入口を意図的に狭くすることで、競合が来ない場所を作っています。カテゴリーの名前そのものを、自社しか使えないものにしています。
同じ記事では、地域の資源を活かした商品が地方企業の持続的な競争優位の源泉になるとも書きました。「博多の焼き鳥屋さんのキャベツのうまたれ」という説明は、福岡の食文化を知らなければ意味が通じません。その分かりにくさが、そのまま参入の障壁になっています。
この事例から考えられること
1. 日々の判断に使える一語が、決まっている
「永続」という基準で、右に行くか左に行くかを判断させる形です。理念を掲示するのではなく、迷ったときに参照する基準として使われています。
2. 分かりやすい名前への変更を、しなかった
説明しやすい名前は、競合にとっても作りやすい商品になります。分かりにくいまま出したことが、結果として守りになっていたという見方ができます。
3. 部署によって、追うものが分けられている
製造や開発は「本物」、接客や総務は「感動」。同じ目標を全社に配るのではなく、部署ごとに追うものが分かれています。
7. ローカルグローススタジオの視点
冒頭に挙げた7つの観点を、本文で確認した事実で説明し直します。
1. 縮小する既存事業を、廃業ではなく土台として使っている
年商6,300万円、従業員6名の醤油屋を継いだ河邉氏は、小売の配達を続けるのでも廃業するのでもなく、業務用のOEMへ製造能力を向けました。ここで育った供給力が、後に茅乃舎だしを全国の百貨店へ乗せる土台になります。
2. 9年赤字が続いた事業を、別の事業の黒字が支えている
椒房庵は北海道産の原卵にこだわった結果、原価が高く9年間赤字が続きました。それでも撤退しなかったのは、OEMが生む資金と、家業として長期で判断できる立場があったからです。
3. 大手が強いカテゴリーを避け、地域の食文化を全国へ持っていっている
かつおや昆布ではなく、九州で身近な「あごだし」を主軸に選びました。競合は少ない代わりに、市場そのものを作る側に回るカテゴリーです。
4. 売る場所を、自分たちで設計している
量販店の流通に乗せるのではなく、通信販売と百貨店の直営店を主力にしました。直販と通販の比率は約82%です。顧客の連絡先が残る売り方を選んだことになります。椒房庵の黒字化でも、卸では品質を守れないという判断から直販へ切り替えています。
5. 日々の判断に使える基準を、一語で持っている
「永続」という基準で社員が日々の判断を行い、その条件として、製造には「本物」、地域性には「地方の旗」、接客には「感動」を割り当てています。理念の掲示ではなく、迷ったときに参照する道具として使われています。
6. 事業の転換は、25年以上かけて段階的に進んでいる
1980年代にOEM、1990年代に椒房庵で9年耐え、2005年から2006年に御料理 茅乃舎と茅乃舎だし、2010年代に百貨店と通販と海外、2020年代に北海道と伊豆本店と銀座。1つの打ち手で変わったのではなく、前の段階が次の段階を支える形で積み上がっています。
7. 原点になる場所に、投資を続けている
御料理 茅乃舎は、2005年の開業から20年後の2025年に、茅葺屋根の葺き替えを終えてリニューアルしました。母方の実家である伊豆本店も子会社化して新生開業しています。商品ブランドだけでなく、そのブランドの源泉になった場所そのものに投資を続けている点が特徴的です。
本事例から見える経営とマーケティングの学び
久原本家の物語は、地方の小さな食品メーカーが「縮小する伝統産業」「自社ブランドの不在」「全国流通のルートがない」という3つの宿題を、4代目への代替わりを起点に、25年以上かけて解いていった事例として読めます。重要なのは、河邉哲司氏が家業に入った時点で「仕方なく」だったにもかかわらず、その会社の中にある製造能力を数え直し、事業の定義を組み替えたことです。
そして、9年間の赤字を許容した椒房庵も、大手が強い棚を避けたあごだしも、量販店に頼らない直販の流通も、すべて短期では不利に見える判断でした。それを通せたのは、家業として長期で判断できる立場と、前段階で稼いだ資金の両方があったからです。ブランドやリソースが薄い状態から成長を作る経営者にとって、久原本家の歩みは「何を残し、何を新しく作るか」を考えるための学びになります。
「ビジネス知の機会格差をなくす」という私たちのミッションに向けて、これからも実践的で価値ある情報を発信していきます。この記事の内容について、さらに詳しく知りたい方は、ぜひご連絡ください。

執筆者 : 佐久間 一己 (さくま かずき)
つなぐスタジオ株式会社 代表取締役社長 / ローカルグローススタジオ Director
リクルート営業マネージャーを経て、福井県小浜市で道の駅・古民家ホテルの集客支援と行政の産業6次化に4年携わり、その後ユーザベースFORCAS(現Speeda)カスタマーサクセスマネージャー、スタートアップ執行役員、フィンテック事業責任者を務め、2025年に地方企業向けのマーケティング代理店を設立。BtoB事業でWEBメディアを立ち上げオーガニック流入を3か月で20倍に伸ばすなど、知名度や予算が限られる時期に効くマーケティングと採用の手法を、地方企業の規模に合わせて伴走します。


