ローカルグローススタジオは、『地方企業にスタートアップのような成長を』というテーマで、コンテンツ発信と支援サービスを展開しています。この記事では、実践的なビジネスノウハウを、できるだけわかりやすくお伝えしていきます。
今回取り上げるのは、新潟県燕市中央通の株式会社玉川堂(ぎょくせんどう)です。1816年(文化13年)、初代玉川覚兵衛が17歳で創業し、1枚の銅板を鎚(つち)で叩き起こして器をつくる「鎚起銅器(ついきどうき)」の技術を210年にわたって受け継いできた工房です。現在は7代目当主の玉川基行氏が代表を務め、職人21名前後という小さな組織で、燕本店・GINZA SIX・西麻布の3つの直営店を運営し、LVMHグループのシャンパン「KRUG」との共同開発やパリ・フランクフルトの見本市を通じて海外にも販路を持っています。
家業を継ぐ経営者は、引き継ぐ会社を選べません。与えられた会社の中の何を変え、何を守るかの見極めがすべてになります。玉川堂の場合、変えないと決めたのは鎚起という技術1点で、それ以外はすべて作り直しました。家業を継いだ方、これから継ぐ方に向けた事例として読み解きます。
この記事の要約
先にストーリーの全体像です。玉川堂はバブル崩壊で売上が3分の1にまで落ち、多額の借金を抱えました。大学3年生だった玉川基行氏は父から「玉川堂が潰れそうだから、すぐに入社して営業として売り上げを作ってほしい」と言われ、1995年に入社します。この年、30名いた職人の半数を解雇し、基行氏自身も1年ほどほぼ無給で販路開拓に回りました。翌1996年、産地問屋から百貨店問屋を経て百貨店へ渡る従来の流通をすべて外し、百貨店へ直接売り込んで実演販売を始めます。取引百貨店は30店を超え、5年ほどで経営危機を脱しました。2003年に32歳で7代目に就任。2011年にはKRUGとの共同開発が実現し、2014年には東京・青山に初の直営店を開きます。このとき百貨店との取引をやめ、売上は約30%落ちました。それでも直営店を軸にする方針は変えず、2017年にGINZA SIX、2024年に西麻布へ出店しています。目標は、燕本店だけで売上の100%を作ることです。
このストーリーから持ち帰れる観点は、次の5つです。それぞれ本文の章で事実を確認し、最後の6章で説明し直します。
1. 売上が落ちると分かっていても、顧客の声が届く流通に変えている(2章)
2. 技術は変えず、その周りをすべて作り直している(2章、3章)
3. 自社の集客を、産地全体の集客に乗せている(4章)
4. 「よそ者」ではなく「しがらみのない若造」として受け止められている(全体)
5. 当主が全部を担わない体制をつくっている(全体)
各章の末尾に、ローカルグローススタジオの分析と「この事例から考えられること」をまとめています。
参考資料一覧
- 玉川堂 公式サイト「玉川堂の歴史」、燕本店、銀座店、笄 KOGAI、公式コラム「伝統新潮流」
- 三井広報委員会「匠を訪ねて 玉川基行氏」(2018年5月14日インタビュー)
- NESTBOWL JOURNAL「『変わらないために、変わり続ける』200年の伝統を未来に繋いでいくための『変わり続ける』経営と、伝統工芸への想い」(2023年4月28日)
- 賢者の選択サクセッション「世界最高のシャンパンメーカー社長が涙、新潟・燕が生んだ『銅の器』とは」前編・後編「百貨店販売をやめて売り上げを落としても、直営店に注力する理由とは」(2025年11月30日)
- CJPF(クールジャパン官民連携プラットフォーム)モデルケース「200年以上続く『鎚起銅器』の技術を活かし、世界から評価されるブランドに育てた7代目の改革」(2024年12月20日取材)
- にいがた産業創造機構(NICO)「日本の伝統工芸を世界の顧客のもとへ」(2015年6月11日)
- ウェブ電通報「伝統だから、を言い訳にしてません?」(2020年1月9日)
- colocal「燕三条のものづくりをリードする創業202年の〈玉川堂〉。」(2018年3月9日)
- 燕三条 工場の祭典 公式サイト・アーカイブ(年別の参加数・来場者数)
- PR TIMES「燕三条 工場の祭典 2023 開催!任意団体KOUBA運営による初めての開催、地域の87社が参加」(2023年9月4日)
- 文化庁 国指定文化財等データベース(玉川堂の店舗等7棟の登録有形文化財登録。個別ページのURLは今回取得できていないため、リンクは付けていません)(登録有形文化財、人間国宝の認定情報)
- 伝統的工芸品産業振興協会(伝統的工芸品の指定、業界統計)
- 燕市「令和6年 燕市の工業」(産地の従事者数と生産額。個別ページのURLは今回取得できていないため、リンクは付けていません)(製造業事業所数・出荷額)
- にいがた鮭プロジェクト 山田立氏インタビュー(2022年8月27日)
- 事業構想オンライン 玉川堂記事(個別ページのURLは今回取得できていないため、リンクは付けていません)(2019年8月30日)
数字で見る玉川堂の転換
| 時点 | 数字 | 出典 |
|---|---|---|
| 1816年 | 初代玉川覚兵衛が17歳で創業 | 公式「玉川堂の歴史」 |
| 1995年2月 | 職人30名のうち半数を解雇。同年3月に玉川基行氏が入社 | 公式「玉川堂の歴史」 |
| 1996年 | 産地問屋・百貨店問屋を経由する流通を廃止 | 公式コラム第90号(玉川基行氏 著) |
| 2000年頃 | 取引百貨店が30店以上に拡大し、経営危機を脱する | 本人談(賢者の選択サクセッション) |
| 2003年 | 玉川基行氏が32歳で7代目に就任 | 公式「玉川堂の歴史」 |
| 2014年8月 | 東京・青山に直営1号店。百貨店取引をやめた年の売上は約30%減 | 公式コラム第73号、本人談 |
| 2017年4月 | GINZA SIX 4階に銀座店 | 公式コラム第100号 |
| 2024年3月 | 西麻布に「玉川堂 笄 KOGAI」(3店舗目) | 公式お知らせ |
| 現在 | 職人21名(うち女性7名は2018年5月時点)、直営3店舗 | 三井広報委員会、CJPF、公式サイト |
業界全体は縮んでいます。伝統的工芸品産業振興協会によれば、伝統的工芸品産業の従事者数は昭和54年の288,000人から令和4年度には48,334人へ、生産額は昭和58年の5,400億円から1,050億円へ減りました。玉川基行氏自身も、業界の状況をこう語っています。
「職人の年収は約4割が100万円以下だと言われていて、これでは後継者が現れにくいし、『斜陽産業だから息子たちに継がせたくない』となってしまう」
なお玉川堂の売上高・資本金は公表されていません。本記事では推定値を数字として扱わないことにします。
1. 200年の間に、何度も潰れかけている
産地の成り立ちと、玉川堂の創業
燕の鎚起銅器は、明和年間(1768年)に仙台から渡ってきた職人・藤七が技を伝えたところから始まりました。背景には、弥彦山の間瀬銅山から良質な銅が採れたこと、燕に和釘づくりの素地があったことの2つがあります。地元の資源と職人技が、外から来た渡り職人によって新しい用途につながった、という始まりです。
1816年、当時17歳の初代玉川覚兵衛が、それまでの銅細工から鎚起銅器の製作へ業態を移し、鍋・釜・薬鑵といった日常の道具を打ち始めました。これが玉川堂の創業です。以後7代にわたり、1枚の銅板を鎚で叩き起こすという一点に技術を絞り続けています。
明治期には早くから海外と接点を持ちました。1873年(明治6年)、日本が初めて公式参加したウィーン万国博覧会に出品。1893年(明治26年)にはシカゴの世界コロンビア博覧会で銀賞を受け、翌1894年には明治天皇の御大婚25周年奉祝に一輪花瓶を献上しています。
苦難のほうが長かった
ただし公式の歴史をたどると、順風の時期はむしろ少数です。3代目の覚平は「鍛金だけでは世界で通用しない」と判断し、廃刀令で職を失った高田藩の鍔師と東京の彫金師を招いて彫金技術を導入しました。4代目の代には、1908年(明治41年)の燕の大火で工場が全焼し、身内の早死、輸送船の沈没、海外バイヤーによる財産の喪失が続きます。昭和初期の大不況では職人が土木作業員として働き、4代目は東京美術学校の教員への転身を真剣に検討するほど廃業寸前でした。横浜高等工業学校長の鈴木達治氏による私財の投入と補助金の斡旋で、1930年(昭和5年)に横浜へ分工場を開き、再起しています。
戦時中は金属回収令により1942年に横浜分工場、1943年に燕本社が営業停止となり、全職人を解雇しました。5代目は「燕航空工業株式会社」を設立して飛行機の胴体の金属部分を作りながら終戦を待ち、戦後すぐ元の職人を呼び戻して銅器の製造を再開しています。1950年の朝鮮動乱では銅価格が3倍以上に高騰し、復興したばかりの銅器屋が複数廃業しました。この危機をきっかけに新潟県への無形文化財指定を求める運動を行い、1958年の指定を機に経営が好転します。
制度上の評価は、この長い助走の中で積み上がりました。1958年に新潟県指定無形文化財、1980年に文化庁の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選択、1981年に「燕鎚起銅器」が伝統的工芸品に指定、2008年には店舗・土蔵・鍛金場・雁木が国の登録有形文化財に登録されています。2010年には玉川宣夫氏が重要無形文化財「鍛金」の保持者(人間国宝)に認定されました。燕三条地域では初、新潟県では5人目です。玉川宣夫氏は、異なる色の金属を20枚から30枚重ねて融着させ木目模様を出す「木目金(もくめがね)」という約400年前の技法の第一人者でもあります。
この事例から考えられること
照らし合わせてみる項目
- 自社の歴史を、成功した出来事以外も含めて語れるか
- 過去の危機を、どう乗り越えたかまで社内で共有しているか
- 制度上の評価(認定・指定・登録)を取りに行き、活かしているか
- 主力製品の技術が、いつどこから来たものか説明できるか
- 業界全体の縮小を、数字で把握しているか
事例から読み取れること
1. 社史に、危機とその乗り越え方が残っている
玉川堂の公式サイトが伝えているのは受賞歴だけではありません。大火、戦時の営業停止、銅価格の高騰という危機と、そのたびに何をして生き延びたかが記録されています。承継の場面で後継者が必要とする資料は、成功の記録よりもこちらではないかと私たちは読みました。
2. 制度上の評価を、50年かけて積み上げている
無形文化財の指定、伝統的工芸品の指定、登録有形文化財。玉川堂はこれらを段階的に取得し、その都度、経営の追い風にしています。自社が申請できる認定や登録を洗い出してみると、同じような積み上げ方があるかもしれません。
3. 業界全体の縮小を、数字で把握している
従事者数が6分の1、生産額が5分の1という数字が把握されていました。この数字を持っていると、現状維持が緩やかな縮小と同義であることが見えてきます。
2. 問屋を全部外した、1996年の流通改革
大学3年で「潰れそうだから入ってくれ」と言われた
7代目の玉川基行氏は1970年、燕市生まれ。もともとは商社を志望していました。
「玉川堂は、バブル崩壊後、売上が1/3にまで減少し、従業員の半数を解雇しました。当時、私は大学3年生でしたが、父に『玉川堂が潰れそうだから、すぐに入社して営業として売り上げを作ってほしい』と言われました。玉川堂で作る銅器は世界でもトップレベルの加工技術と着色技術が使われていると自負していました。だから、販売方法を変えれば立て直せると思い、大学卒業後に入社しました」
家業に戻る前から、会社の状態は把握していました。
「大学卒業後は商社に入りたいと思っていたのですが、父からはすぐに玉川堂に入ってくれ、と言われて。というのもその頃の玉川堂は、社員を解雇しなければならないほど経営が厳しく、多額の借金も抱えていました。父としては伝統を絶やすことなく、何とか会社を立て直してほしいという思いを強く感じたのです。大学時代から、父には会社状況をさまざまな面からヒアリングしていて、私なりに立て直すためのアイディアは持っていたのです。そうしたアイディアに父は賭けたのでしょうね」
入社した1995年の状況も、本人が書き残しています。
「私が入社した1995年、経営はすでに末期症状で、私の入社と同時に従業員を半数解雇し、私は1年間ほぼ無給で、まずは販路開拓から取り組みました」
入社してすぐ、問屋をすべて外した
1996年、基行氏は産地問屋から百貨店問屋を経て百貨店へ渡るという従来の流通を、まるごと廃止します。
「私の父の頃は問屋を経由して販売を行っていましたが、このやり方ではお客様の声が全く聞こえませんでした。そこで私が入社してすぐ、問屋をすべて外しました。問屋を外すことは思い切った決断でしたが、お客様の声が聞こえないことは最大の欠点だと思っていたので、問屋を外し、百貨店にアポなしで売り込みに行って実演販売をしたんです」
この判断ができた理由も、本人が語っています。
「これは、地域にしがらみのない若造だったからこそ可能にした流通改革であると思っています」
百貨店での実演販売は年40回ほどのペースで続き、取引先は30店を超えました。入社から5年ほどで、経営危機を脱しています。
2014年、今度は百貨店をやめて直営店へ
流通改革はここで終わりません。2014年8月、東京・青山に初の直営店を開き、同時に百貨店との取引をやめます。理由は、ブランドの帰属先です。
「ブランディングを行うために、やはり百貨店ではなく直営店で販売すべきだと考えたからです。百貨店で購入すると、百貨店の包装紙に玉川堂の商品が包まれることになるでしょう。そうすると玉川堂の信頼ではなく、百貨店の信頼によって購入されます。玉川堂ブランドではなく、百貨店のブランドイメージがぬぐいきれません。ブランディングとは流通経路の短縮だと思っています。直営店なら、お客様との親和性を高めることができます。ルイ・ヴィトンもエルメスも、海外の有名ブランドはすべて、自社製品を自社店舗で販売しています。日本の伝統工芸業界も、直販を行わないと衰退の一途を辿ると思うのです」
この判断の代償も、本人が具体的に語っています。
「百貨店との取引をやめた年は約30%も売上が落ちました。直販に切り替えると利益率などが良くなるイメージがありますが、そうではありません。直営店は賃料やスタッフの人件費などがかかり、百貨店と取引をしている時と利益率はほとんど変わりませんでした」
利益率が改善するわけでもなく、売上は3割落ちます。それでも直営店を選んだ理由は、顧客との関係を自社が持つことでした。玉川堂が掲げている言葉は、次の一文です。
「私たちが作った銅器を、私たちのお店で、私たちが丁寧に販売する」
なお青山店は2019年11月に5年間の営業を終えて閉店し、現在の直営店は燕本店、GINZA SIX店(2017年4月開業)、西麻布の笄 KOGAI(2024年3月開業)の3つです。
「変わらないために、変わり続ける」
基行氏が繰り返し使う言葉があります。その意味も、本人が定義しています。
「単に技術を受け継ぐのが『伝承』、革新を繰り返すのが『伝統』で、現代の『伝統工芸』の業界は『伝承工芸』になっていると思います。(中略)未来につなげていくためには、経営の部分に革新的に取り組まなければなりません。これが『伝統』です。私が大切にしている言葉に『変わらないために、変わり続ける』というのがあります。伝統工芸でいえば、『変わらない』ものが技術であり、『変わり続ける』ものが経営や流通です。技術を変わらずに伝えていくためには、経営を変えなければならない。伝統とは革新の連続であり、変わらないために変わり続けるというのが大切です」
「『伝統は革新の連続』という言葉をよく使うのですが、伝統と伝承は違います。伝承は『ただ受け継がれていくこと』、伝統は『革新を連続していくこと』を指します。そもそも、伝統という言葉は軽々しく使えるものではないのです。その言葉は重く、非常に責任を伴うもの。常に変化をしなければいけないのが伝統です」
変えないものを技術1点に絞り、それ以外はすべて変える対象にしています。この線引きが、2度の流通改革を可能にしています。
ローカルグローススタジオの分析:短期の売上を落としてでも、顧客との距離を取りに行っている
私たちは間違ってはいけない戦略の順番|ビジョン→事業→商品→営業→組織という記事で、戦略には階層があり、手元の制約から考え始めると現状維持型の戦略に落ちる、と書きました。同記事では、下位の戦略(組織や資金の現実)からのフィードバックを受け入れすぎてはいけない、とも書いています。
玉川堂の2度の流通改革を読み解くと、私たちが記事に書いた考え方と同じ考えで判断していることが分かります。1996年に問屋を外したときも、2014年に百貨店をやめたときも、短期の数字は悪化します。実際、2014年には売上が約30%落ちました。それでも変えなかったのは、「お客様の声が聞こえない」流通ではブランドが自社に帰属しない、という「何のために」の判断があったからです。
同記事では、営業戦略とは「顧客獲得をどのように行うか」の選択であり、事業戦略と商品戦略から導かれるべきものだと整理しました。玉川堂の場合、鎚起銅器という技術を残すという最初に決めた目的から、直営店という営業のかたちが決まっています。順番が逆であれば、利益率が変わらず売上が3割落ちる選択は通りません。
この事例から考えられること
1. 流通を変えた理由が、利幅ではなく情報にあった
問屋を外した理由として語られているのは、利益率ではなく顧客の声が届かないことでした。自社の商品が最終顧客にどう届き、どんな感想が返ってきているかが分からない販路がどれだけあるかという問いは、他の会社でも立てられそうです。
2. 流通の切り替えで、約30%の売上減を経験している
直販に切り替えれば利益率が上がるという期待を、玉川基行氏本人が否定しています。賃料と人件費が乗るためです。切り替えの下振れがどの程度で、何か月続いたのかを実数で語っている点が、この事例の材料としての価値だと私たちは考えています。
3. 変えないものが、1つに絞られている
玉川堂が変えないと決めたのは、1枚の銅板を鎚で叩き起こす技術だけでした。それ以外は流通も組織も店舗も変えています。変えないものを絞ることが、変えられる範囲を広げていた例と読めます。
3. 職人と営業の垣根を外す
200年で初めて、女性職人を採用した
玉川堂は2010年前後に、200年の歴史で初めて女性職人を採用しました。社内外に反対もありました。
「また、革新という部分には女性の力も必要だと思っています。現在は21名の職人のうち7名が女性で、女性ならではのアイデアでヒット商品も生まれました。私の父の頃は、職人として女性を採用しませんでしたし、私が女性を入れることにも反対されました。200年やっていると『常識』ができてしまうんです。その『常識』を疑うことが、伝統工芸の経営においてとても大事です」(2018年5月時点)
商品づくりへの影響も語られています。
「200年間、男性目線のものづくりをしてきたことは否めません。これからは女性の意見を取り入れた商品も、積極的に開発していきたいと思っています」
職人が、店頭に立つ
もう1つの組織上の特徴が、職人と営業の役割を分けないことです。
「職人と営業の垣根を無くし、お客様とのコミュニケーションを通して新しい商品をつくり、お客様の満足度を高めていくことが玉川堂のブランディングと言えます」
「製品のことを一番知る職人こそが、最高の営業なんです」
問屋を外して直営店に移した流通改革は、この組織運用とセットになっています。顧客の声を聞くために流通を短くしたのですから、その声を聞く相手は作り手でなければ意味がありません。
当主だけでなく、番頭がいる
組織面でもう1つ触れておきたいのが、番頭の存在です。営業と経営企画を担う山田立氏は、2013年に始まった「燕三条 工場の祭典」の立ち上げに携わり、実行委員長を数回務めています。海外メディアの取材対応でも、玉川堂の窓口として応対しています。当主が対外的な顔をすべて担うのではなく、地域連携と対外活動を担うナンバー2がいる。小さな組織が外に開くときの、1つの形です。
4. 産地全体を開く、「燕三条 工場の祭典」
2013年、54工場が同時に工場を開いた
玉川堂の取り組みを「地域全体への接続」という点で象徴するのが、2013年に始まった「燕三条 工場の祭典」です。第1回は2013年10月に開催され、54工場が参加、来場者は10,708人(県外比率38.6%)でした。玉川堂は第1回から中核の参加事業者として関わり、毎年「KOUBA」(工場)として公開され、鎚起銅器を打つ音を聞ける現場体験を提供してきました。
公式アーカイブに基づく、参加数と来場者数の推移は次のとおりです。
| 年 | 回 | 参加 | 来場者(県外比率) |
|---|---|---|---|
| 2013年 | 第1回 | 54工場 | 10,708人(38.6%) |
| 2014年 | 第2回 | 59工場 | 12,661人(40.7%) |
| 2015年 | 第3回 | 68工場 | 19,312人(37.1%) |
| 2016年 | 第4回 | 96(工場78・耕場13・購場5) | 35,143人(39.1%) |
| 2017年 | 第5回 | 103(工場83・耕場11・購場9) | 53,294人(36.1%) |
| 2019年 | 第7回 | 113(工場90・耕場11・購場12) | 56,272人(27.0%) |
| 2021年 | 第9回 | 協力57工場 | 3,762人(展覧会形式) |
| 2025年 | 第13回 | 133社 | 62,060人(歴代最高) |
2023年には、地元主導の任意団体「KOUBA」による運営へ世代交代し、地域の87社が参加しています。2025年は参加133社、来場62,060人、総販売金額5,769万円といずれも歴代最高でした。
なおこのイベントの発案者を1人に帰することはできません。玉川堂の番頭・山田立氏が立ち上げに携わったことは本人の証言で確認できますが、公式アーカイブの運営チーム欄に個人名での発案者の記載はなく、外部プロデューサーの関与も記録されています。玉川基行氏自身も2025年のコラムで、燕三条 工場の祭典を2011年の台東モノマチ以降に全国で同時多発したオープンファクトリーの潮流の1つとして位置づけており、自らを単独の発起人だとは書いていません。
自社1社ではなく、産地を開いた
同じ産業観光でも、1社で工場を開くのと、産地全体で同時に開くのとでは意味が変わります。玉川堂1社を目的に燕まで来る人は限られますが、100社規模の工場が同時に開くなら、「燕三条に行く理由」が生まれます。来場者は数日かけて複数の工場を回り、玉川堂はその中で鎚起銅器を代表するKOUBAとして体験されます。1社のブランディングと産地のブランディングが入れ子になる構造です。
玉川堂単独の工場見学も伸びています。燕本店の見学者数は、2011年頃の700人から2016年には5,500人(うち海外約400人)、2018年には7,000人(うち外国人400人)へ増えました。基行氏は2018年の取材で「近年、玉川堂を訪れる海外の方も増え、以前は年間数十人ほどだったのが、昨年は約400人になりました」と語っています。
ローカルグローススタジオの分析:自社に人を呼ぶ仕組みを、産地全体と共有している
地方企業やスタートアップに共通する、低リソース・ブランド無しの戦わない戦略で、私たちはアライアンス施策の型を3つ挙げました。共同キャンペーン、共同イベント・セミナー、プレスリリースの共同発出です。狙いは、単独では届かない相手に、他社のリソースと組み合わせて届くことでした。
燕三条 工場の祭典を読み解くと、この2つ目の型と同じ考えが、産地の規模で表れています。玉川堂は自社だけで来場者を囲い込まず、同じ地域の金属加工メーカーと同時に工場を開きました。参加社数が増えるほど1社あたりの来場者を奪い合いそうに見えますが、実際には来場者数そのものが伸びています。2013年の54社・1万人から、2025年には133社・6.2万人です。訪問先が増えたことで「その地域へ行く理由」の側が強くなり、パイ全体が広がりました。
同記事ではもう1つ、地域特化型マーケティングとして「地元の祭りやマルシェへの積極参加」「地域コミュニティを通じた多面的な接点」を挙げました。玉川堂の場合、参加するだけでなく、番頭が実行委員長を務めるところまで踏み込んでいます。地域のプラットフォームに人を出す投資が、自社の集客に返ってきている形です。
この事例から考えられること
1. 自社単独ではなく、産地のイベントに乗っている
自社単独で集客イベントを企画すれば、告知も動員も自社の負担になります。玉川堂は産地全体のイベントに参加する形を取りました。初期の負担が小さく、届く範囲が広い進め方として読めます。
2. 地域の座組に、会費だけでなく人を出している
玉川堂は番頭が実行委員長を務めています。協賛金ではなく運営に人を出したことが、地域のなかでの位置に影響していた可能性があります。
3. 見学者数を、年単位で記録している
700人から5,500人、7,000人という推移を語れるのは、数えていたからです。記録があるから効果を語れる、ということがこの事例では実行されています。
5. 世界の見本市から、燕本店へ来てもらうブランドへ
KRUGとの共同開発と、そこで変わった目標
玉川堂の海外展開でよく知られるのが、LVMHグループのシャンパン「KRUG」との共同開発です。2011年にワインクーラーが発表されました。この取り組みが基行氏にもたらしたのは、受注そのものより、目標の変化でした。
「クリュッグ社のブドウ畑や醸造所を見て、私は感動し涙しましたが、クリュッグの6代目も私たちの工場を見学して涙してくださいました。醸造所に世界中から多くのお客様が見学にくることを知り、玉川堂も直営店を持ち、世界中のお客様に来店していただきたい。五感を使って製品の価値を実感してもらえるブランドにしたいと考えるようになりました」
「半年後、私もフランス・シャンパーニュ地方の本社に行って、葡萄畑を案内してもらいました。KRUGの職人が一生懸命に葡萄畑で作業している姿を見て、感動して涙がでてきまして。『これまでニューヨークやパリに直営店を作りたいと思っていたけど、そうではない。海外から燕三条の本社に来てもらえるブランドになろう』と決意を改めました」
海外の見本市には2003年の社長就任以降、パリの「メゾン・エ・オブジェ」やフランクフルトの「アンビエンテ」へ継続的に出展しています。この出発点は、単独の投資ではありませんでした。
「海外への足がかりとなったのは、初回から参加しているNICOの百年物語。『海外展開は初期投資が必要だけに、単独では負担も大きい。百年物語がなかったら、進出はもっと遅くなっていたと思います』」
価格の決定権についても、方針が語られています。
「ブランディングには価格が重要ですし、決定権を持つことが不可欠。そのためにも信頼できる取引先との直接取引が必要だと思っています」
鉄道の中にも、鎚起銅器が置かれている
もう1つの接点が、JR東日本のクルーズトレイン「TRAIN SUITE 四季島」です。公式連載「四季島を支える想い」のVol.8には玉川基行氏が登場し、車内で使われる玉川堂の製品が紹介されました。日本各地を巡る高価格帯の鉄道の中に、燕三条の鎚起銅器が組み込まれています。海外のラグジュアリーブランドとの協業と、国内の高付加価値な場との接続が、同じ線の上に並んでいます。
目標は、燕本店で売上の100%を作ること
基行氏が掲げている最終的な目標は、都市部の店舗を増やすことではありません。
「かつてはニューヨークやパリに出店したいという夢を抱いていましたが、そうではなく、製造現場へ世界中の方々からお越しいただく。将来的には、製造現場でもある燕本店で売上100%を作ることを目標としています」
「私のビジョンは、燕三条を国際産業観光都市へと発展させ、直営店を玉川堂本店に集約し、本店売上を100%にしていくことです。玉川堂5年・10年・15年計画を立てており、これは15年計画(私が60歳の時)にあたり、本店以外の直営店は、メンテナンス機能として一部残します」
「究極的には燕三条の本店だけで成り立つようなブランドに育てていきたいです。工場の近くにミュージアムやレストラン兼ホテルのオーベルジュを作り、鎚起銅器に囲まれた体験を提供できるのが理想ですよね」
問屋を外し、百貨店をやめ、直営店を開き、最後は燕の本店だけにしていく。流通経路を短くし続けるという1つの方向で、30年の意思決定が貫かれています。
ローカルグローススタジオの分析:場所そのものが、効き続ける集客資産になっている
顧客獲得コストを下げるには「ストック>フロー」を意識しようで、私たちは広告のように出稿を止めれば消えるフロー型の施策と、一度作れば効き続けるストック型の施策を分けて考えるという考え方を書きました。地方企業ほど広告予算に限りがあるため、ストック型の比重を上げる意味が大きくなります。
玉川堂が目指している「燕本店で売上100%」を読み解くと、私たちが記事に書いた考え方と同じ考えが、突き詰めた形で表れています。工場見学者は2011年頃の700人から2018年に7,000人へ増えました。工場と店舗は一度作れば、翌年も翌々年も人を集め続けます。産地の祭りに参加することも、海外の見本市に継続出展することも、その年だけの効果では終わりません。
同記事では、ストック型の施策は効果が出るまで時間がかかるとも書きました。玉川堂の場合、1996年の問屋外しから、2014年の直営1号店、2024年の3店舗目まで、30年近くかけています。短期の売上を犠牲にした年が何度もあり、そのたびに戻していません。ストックを積む判断は、1年では正しさが分かりません。
この事例から考えられること
1. すでにある拠点を、人が来る場所に変えている
工場と店舗という既存の場所を、人が来る理由のある場所に作り替えました。新規の広告費と違い、一度整えた場所は効き続けます。すでにある拠点を同じ目で見直せる会社は、ほかにもありそうです。
2. 海外への一歩目が、公的な枠組みから始まっている
玉川堂の海外展開は、にいがた産業創造機構の「百年物語」への参加から始まりました。単独では初期投資が重すぎると本人が語っています。自治体や公的機関の出展枠が、最初の一歩の負担を下げた例です。
3. 最終形を決めてから、途中の店を配置している
燕本店に集約するという最終形が先に決まっているため、都市部の直営店は途中の拠点として位置づけられています。出店の判断が最終形からの逆算になっている点が、この事例の特徴だと私たちは読みました。
6. ローカルグローススタジオの視点
冒頭に挙げた5つの観点を、本文で確認した事実で説明し直します。
1. 売上が落ちると分かっていても、顧客の声が届く流通に変えている
1996年に問屋をすべて外し、2014年には百貨店との取引をやめて直営店に移りました。後者では売上が約30%落ち、利益率も改善していません。それでも変えた理由は、「お客様の声が聞こえない」流通ではブランドが自社に帰属しないという判断でした。
2. 技術は変えず、その周りをすべて作り直している
「変わらない」ものが技術であり、「変わり続ける」ものが経営や流通である、という線引きが最初にあります。変えないものを1点に絞ったため、流通も組織も店舗も変える対象にできました。
3. 自社の集客を、産地全体の集客に乗せている
燕三条 工場の祭典は、玉川堂1社ではなく産地全体で工場を開く仕組みです。参加社数が増えるほど来場者も増え、2013年の54社・1万人が2025年には133社・6.2万人になりました。番頭が実行委員長を務めるところまで、人を出しています。
4. 「よそ者」ではなく「しがらみのない若造」として受け止められている
問屋を外せた理由を、本人は「地域にしがらみのない若造だったからこそ可能にした流通改革」と説明しています。先代にはできなかった判断が、若い後継者にはできることがあります。この会社では、既存の人間関係が判断を縛っていた流通の部分で、若い後継者のほうが動けています。
5. 当主が全部を担わない体制をつくっている
玉川堂には、営業と経営企画を担い、地域イベントの実行委員長も務める番頭がいます。玉川堂では、地域連携や対外活動を番頭が担うことで、当主が技術と商品に集中できています。
本事例から見える経営とマーケティングの学び
玉川堂の物語は、200年の工房が「問屋依存」「顧客との距離」「産地全体の縮小」という3つの宿題を、7代目への代替わりを起点に順番に解いていった事例として読めます。重要なのは、玉川基行氏が最初に「変えないもの」を鎚起という技術1点に定め、それ以外をすべて変える対象にしたことです。その線引きがあったため、2度の流通改革も、女性職人の採用も、産地全体を開く取り組みも、同じ1本の線でつながりました。
創業から現在までの200年は、順風より苦難のほうが長い歴史です。大火で工場を失い、戦時に営業停止となり、バブル崩壊で職人の半数を解雇しました。そのたびに、技術は残して周りを作り直しています。ブランドやリソースが薄い状態から成長を作る経営者にとって、玉川堂の歩みは「何を残し、何を変えるか」を考えるための学びになります。
「ビジネス知の機会格差をなくす」という私たちのミッションに向けて、これからも実践的で価値ある情報を発信していきます。この記事の内容について、さらに詳しく知りたい方は、ぜひご連絡ください。

執筆者 : 佐久間 一己 (さくま かずき)
つなぐスタジオ株式会社 代表取締役社長 / ローカルグローススタジオ Director
リクルート営業マネージャーを経て、福井県小浜市で道の駅・古民家ホテルの集客支援と行政の産業6次化に4年携わり、その後ユーザベースFORCAS(現Speeda)カスタマーサクセスマネージャー、スタートアップ執行役員、フィンテック事業責任者を務め、2025年に地方企業向けのマーケティング代理店を設立。BtoB事業でWEBメディアを立ち上げオーガニック流入を3か月で20倍に伸ばすなど、知名度や予算が限られる時期に効くマーケティングと採用の手法を、地方企業の規模に合わせて伴走します。



